大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

仙台地方裁判所 昭和48年(た)2号 決定

目  次

主文

理由

第一 確定判決

第二 確定判決の証拠構造

一1 確定判決の証拠摘示

2 二審判決の説示

(一) 自白の任意性

(1) 自白の経過

(2) 強制、誘導の有無

(3) 自白の内容にもとづく検討

(二) 自白の真実性

(1) 掛布団襟当ての血痕による自白の裏付け

(2) ジヤンパー・ズボンの血痕不発見と自白

(3) 個々の供述の真実性

(イ) 瓦工場での休憩

(ロ) 山道の通行

(ハ) 忠兵衛方の状況についての供述

(ニ) 忠兵衛方家族の就寝状況についての供述

(ホ) 足に「ツカア」としたという供述

(ヘ) ジヤンパー・ズボンの洗濯とトラツクの通行

(ト) 杉山での休憩

(チ) 検察官検証の際の指示説明

(リ) 自在鈎の発見

(ヌ) 岩窯の位置等

(4) 凶器と創傷等との符合、殺人放火の順序

(5) 自白の動機

(6) 犯行の動機

(7) 留置場内の房内の落書き

(三) 請求人のアリバイ

二 証拠構造の要約

第三 一次再審請求と二次再審請求の経過

一 一次再審請求の経過

二 一次再審請求の理由と請求棄却決定の理由の骨子

1 請求理由の骨子

(一) 刑事訴訟法四三五条二号、四三七条の事由

(二) 同法四三五条六号の事由

(1) 襟当ての血痕偽造

(イ) 掛布団は弟の使用物

(ロ) 二次的、三次的血液の付着ではない

(2) ジヤンパー・ズボンには当初から血痕付着がなかつた

(イ) 平塚三〇・一二・二二鑑定は血痕斑を認めない

(ロ) 洗濯しても血痕反応は残る

(3) 薪割りは本件の兇器ではない

(イ) 条痕と加熱温度

(ロ) 薪割りの被熱温度

(ハ) 条痕は後日工作されたもの

(ニ) 薪割りに血痕反応がない

(4) 電灯は消えていた

(5) 高橋勘市の一審証言は偽証

2 請求棄却決定理由の骨子

三 二次再審請求の経過

1 再審請求と古川支部の決定

2 抗告裁判所の決定要旨

第四 本件請求の審理

一 請求の理由と新証拠の提出

二 検察官の意見

三 事実の取調べ

第五 当裁判所の判断

一 上級審裁判所の判断の拘束力

二 刑事訴訟法四三五条六号所定の「明白性」の判断方法と判断基準

第六 請求理由についての具体的検討

一 掛布団襟当ての血痕と三木、古畑鑑定の証拠価値

1 請求人の主張の要旨と新証拠

(一) 掛布団は弟の使用物

(二) 襟当てには押収時に三木鑑定のような多数の血痕はなかつた

(三) 三木鑑定書の虚偽性

(四) 血痕付着状況の不自然性

(五) 三木、古畑鑑定の無価値性

2 考察

(一) 請求人主張の(一)点について

(二) 同(二)点について

(1) 石原鑑定書等の新規性とその内容

(2) 押収時及び三木鑑定時の写真撮影

(3) 平塚三〇・一二・二八鑑定書について

(4) 請求人主張のその他の根拠

(5) 血痕の工作を否定するその他の根拠

(三) 同(三)点について

(四) 同(四)点について

(五) 同(五)点について

(1) 請求人の主張の要旨

(2) 三木、古畑鑑定の方法と結論

(イ) 三木鑑定

(ロ) 古畑鑑定

(3) 須山鑑定書及び木村五三・九・二七鑑定書の新規性

(4) 須山鑑定書の鑑定要旨

(イ) 三木鑑定について

(ロ) 古畑鑑定について

(5) 木村鑑定書の鑑定要旨

(イ) 三木鑑定について

(ロ) 古畑鑑定について

(6) 須山、木村鑑定の検討

(7) まとめ…一六九八

二 ジヤンパー・ズボンの血痕反応

1 請求人の主張の要旨と新証拠

2 考察

(一) ジヤンパー・ズボンの同一性

(二) ジヤンパー・ズボンの血痕付着の有無

(1) 宮内鑑定の成績

(2) 木村四四・五・一鑑定の成績

(3) 宮内鑑定の検討

(4) 木村鑑定の検討

(5) 他の鑑定による切取りの影響

(三) 請求人の自白及び掛布団襟当ての血痕の証拠価値に及ぼす影響

三 薪割りが本件犯行の兇器ではないとの主張について

四 自白の真実性

1 自白にいたる経過と自白の動機

(一) 確定判決の審理等に顕われた証拠による認定

(二) 自白後否認の経過

(三) 否認の手記等による自白の動機

(四) 逮捕後の取調べ状況

(五) 高橋勘市の員面調書の新規性とこれを加えての自白の経過、動機の検討

(六) まとめ

2 個々の供述内容の真実性

(一) 犯行の動機

(二) 犯行の内容

(三) 瓦工場での休憩

(四) 割山から入る山道の往復

(五) 忠兵衛方屋内の状況に関する供述

(六) 忠兵衛方家族が寝ていた順序

(七) 杉葉及び稲杭についての供述

(八) ジヤンパー・ズボンへの血痕付着とその洗濯とその後の処置

(九) 逃走途中のその他の出来ごと

(一〇) 自在鈎の発見

(一一) 録音テープ

3 自白の総合考察

五 その他の問題点

1 アリバイの有無

2 留置場房内の落書き

第七 結論

請求人 斎藤幸夫

昭六・三・一六生 仙台拘置支所在監

主文

本件について再審を開始する。

請求人に対する死刑の執行を停止する。

理由

第一確定判決

一  請求人は昭和三二年一〇月二九日、仙台地方裁判所古川支部において、強盗殺人、非現住建物放火被告事件により死刑の有罪判決言渡しを受け、これに対して順次控訴、上告を申し立てたが、昭和三四年五月二六日仙台高等裁判所において控訴棄却の、さらに昭和三五年一一月一日最高裁判所において上告棄却の各判決があり、右第一審判決が確定した(以下この確定にかかる第一審判決を「確定判決」という。)。

二  右確定判決において認定された犯罪事実は次のとおりである。

「被告人は、昭和二十年三月本籍地の国民学校高等科を卒業、翌四月宮城県遠田郡南郷村立南郷農学校に入学したが、間もなく終戦となり学業に興味を失い同年八月ごろ退学して、同県志田郡鹿島台町所在の関口製材所、渡辺製材所などに製材工として働き、昭和二十六年秋ごろ父斎藤虎治が同町内で移動製材業を開業したので、右渡辺製材所をやめ、その後引き続き父の移動製材業を手伝い、その間約半年ぐらいずつ岩手県釜石市で「とび」仕事をしたり、東京都足立区でトラツクの運転助手をしたりしたほかは家業の製材業の手伝いに従事していたのであるが、十七、八歳ごろから酒を飲みならい、しだいに飲食店などでの飲酒の度を加え、両親から受ける数千円の小遣銭では遊興の資を充すのに足りず、着用していつたオーバーコート、雨合羽などや乗つていつた父虎治所有の自転車まで飲食代の「かた」に置いてきたり、二、三年のうちに約二十回にもわたつて父虎治所有の米を持ち出して飲み代に替えたりしたが、昭和三十年十月ごろまでに同町内の飲食店、旅館、酒店、食糧品店、知人などに六、七千円の借財がかさみ、とかく小遣銭に窮していたところ、そのころ同町平渡字新屋敷下料理店「二葉」こと菅野重蔵方の女中渡辺智子に愛着を覚え、同女と結婚したいとの望みを抱いたが、同女の雇主菅野からは同女に前借金のあることを聞かされ、母ひでには同女と結婚したい旨を打ち明けたうえ、同女が母の気にいつたならば同女との結婚を許してもらいたい旨懇請し、母に前記菅野方を訪ねてもらつたけれども、母の賛成するところとならなかつたので、周囲の反対を押し切り家出しても智子といつしよになろうとまで思い、焦燥の念に駆られており、かれこれ金銭の入手に苦慮していたおりから、

第一  昭和三十年十月十七日午後四時ごろ同町内で友人加藤浩と出会い、同人からさきに被告人らと料理店「二葉」で飲酒した際の飲食代として同人が預り保管していた柔道大会の前売券代金二千円を費いこんで、他から一時借り受けその穴埋めをしておいた金の返済が延引しているため、ふたりの所有物を出し合い入質して金策したいと誘われ、被告人はスプリングコートを持ち出し、右加藤と午後七時二分東北本線鹿島台駅発下り列車で遠田郡小牛田町に赴き、同町小川質店に両人の衣類数点を入質したあと、加藤が同質店から受け取つた二千五百円のうちから、小牛田駅前の屋台店で清酒、焼ちゆう取りまぜコツプで三、四杯を飲んだうえ、同町に泊つてゆくという加藤と同駅前広場で別れ、被告人は午後九時四十九分発上り列車で、午後十時過ぎごろ鹿島台駅に下車し帰途に就いたが、その途中前日(十月十六日)の午前九時ごろ志田郡松山町氷室字新田百四十番地小原忠兵衛の妻よし子が、被告人方庭先で材木を買い取つていつたことを想い起し、同人方で普請をするのなら二、三万円の金はあるに相違ないから同人方の寝静まるのを待つて同家に押し入り金員を盗み出そうと考え、自宅には帰らず自宅附近の株式会社東日本赤瓦製造工場東北工場内で休息しながら時間をつぶし、翌十八日午前三時半ごろ前記小原忠兵衛方に赴き、電灯の点じられていた同家内部の様子をうかがつたが、忠兵衛とは顔見知りなので、いつそ一家をおう殺したうえ金員を盗み取ろうと決意し、同家浴場の壁に立てかけてあつた刃わたり約八センチメートルの薪割り一丁(押収目録番号二はその刃の部分)を携え同家八畳の寝室に至り、まくらを列べて熟睡中の主人忠兵衛(当時五十三年)、ついで妻よし子(当時四十二年)、長男優一(当時六年)、四女淑子(当時九年)の各頭部を順次右薪割りで数回切りつけ、忠兵衛を頭部右側の割創による脳障碍により、よし子を第四脳室の出血と脳震盪により、優一を脳障碍(あるいは失血)により、淑子を頭部後側の割創による脳障碍により、いずれもそのころその場で死亡させて殺害したうえ、右寝室内にあつたタンスを開いて金員を物色したけれども、現金が見つからないため、金員強取の目的を遂げなかつたが、

第二  その直後、右現場をそのままに放置しておくときは、証拠が残るから右犯跡を隠ぺいするため、同家屋に放火して、これを焼き払つてしまおうと決意し、同家木小屋から枯杉葉一束を持ち出してきて忠兵衛ら夫婦の死体の頭部あたりに置き、さらに同家入口附近にあつた木くず容りの木箱を持つてきて木くずを右杉葉のあたりにまき散らしたうえ、所携のマツチで枯杉葉に点火して発火させ、よつて同十八日午前四時ごろ人の現住しない右小原忠兵衛の所有していた約十坪五合の木造わらぶき平屋建家屋一むねを全焼させ

たものである。」

以上の事実は、右確定事件の記録と本件再審請求書添付の各判決書写しの記載により明らかである。

第二確定判決の証拠構造

一  確定判決挙示の犯罪事実認定の証拠及び確定判決に対する控訴審の判決(以下これを「二審判決」という。本件再審請求書添付の判決書写し参照)において、確定判決の事実認定を肯認して説示したその理由を手掛りとして、確定判決が有罪の認定をするにいたつた証拠の構造について考察する。

1  確定判決の証拠摘示

確定判決には大要次のような証拠が挙示されている。

(一) 犯行の動機、強盗殺人、放火の犯罪事実を承認した自白として、請求人の司法警察員に対する昭和三〇年一二月六日から同年一二月一五日まで毎日(但し同月一一日を除く。)付の各供述調書、及び検察官に対する同年一二月一一日付供述調書(以下、文書(新聞を含む。)の作成日付及び証人尋問、検証、鑑定等の施行日付は、例えば「三〇・一二・六」と単に数字のみで略記し、司法警察員又は検察官に対する供述調書は単に「員面調書」又は「検面調書」と略記する。)

(二) 右自白の裏付けとして

(1) 犯行の動機の一つである(イ)請求人の借財と小遣銭に窮していた点及び(ロ)被害者小原忠兵衛方に金があると請求人が推量していた点、につき、料飲食店関係者らの捜査官に対する供述調書等一〇点の証拠((イ)点につき)、被害者小原忠兵衛の妻に木材を売り渡した関係者である請求人の兄斎藤常雄の三〇・一二・一六検面調書等四点の証拠((ロ)点につき)

(2) 犯行の状況、犯行の結果等の罪体に関する証拠として、犯罪事実第一強盗殺人及び第二放火の全部につき、捜査官の犯行現場等に関する、検証調書、各実況見分調書、捜査報告書、裁判所の検証調書、被害者らの死体に関する各鑑定書(鑑定書の訂正書を含む。)とその添付写真

(3) 自白にかかる兇器として、犯行現場から押収にかかる薪割り一個、この薪割りに条痕が存在し、これが人間の頭髪を鉄板に人血液で粘着し加熱実験した場合に生じた条痕に酷似するとした荒井晴夫、丹羽口徹吉共同の鑑定書

(4) 犯罪事実第一強盗殺人の犯行が請求人の犯行であることの裏付け証拠として、押収にかかる掛布団一枚が存在し、(イ)この掛布団が請求人の使用にかかるものであり、(ロ)掛布団に取り付けてある襟当てに人血による血痕が付着しており、その血液型がA型又はA型とO型とが混在したと考えられる点について、請求人の祖母斎藤キサの検面調書等三点の証拠((イ)点につき)、三木敏行三二・三・二三鑑定書及び古畑種基の鑑定書((ロ)点につき)

(5) 犯罪事実第二の放火犯行及び犯行後の請求人の行動に関する自白の裏付けとして犯行直後ころ現場付近を通りかかつた村上重一外一名の各検面調書、火災の推移状況の推定に関する永瀬章の鑑定書等の証拠

(6) その他、犯行前夜の請求人の行動に関する自白の裏付けとして、行動を共にした加藤浩の検面調書、自白のなかにある瓦工場に関する裏付けとして関係者の捜査官に対する各供述調書、等の証拠

(三) そのほか犯行のもう一つの動機として、請求人が料理店二葉の女中に想いをかけ、同女と結婚したいと希望し、その女中に前借金があつた点につき、犯行否認後の取調べにかかるものであるが、右趣旨にそう請求人の三〇・一二・二八、同二九各検面調書並びにこれを裏付ける当該女中の公判廷における証言及び関係者の捜査官に対する供述調書の合計六点の証拠

がそれぞれ挙示されている。

2  二審判決の説示

二審判決は、「原判示強盗殺人及び放火の事実は、原判決挙示の証拠によりこれを肯認し得るのであつて記録を精査し当審における事実取調べの結果に徴しても原判決の右事実認定に過誤のあることを疑うべき事由は存しない。」とし、その理由として説示するところは要旨次のとおりと理解される。

(一) 自白の任意性

次の諸点から考察して、請求人の自白には任意性を疑うべき事由は認められない。

(1) 自白の経過

自白するにいたつた経過をみると、請求人は昭和三〇年一二月二日別件の傷害容疑により東京で逮捕され、古川警察署に押送された後、同月五日から本件強盗殺人放火事件の容疑により亀井警部の取調べが始められ、同日と翌六日の二日間にわたり、事件当時の昭和三〇年一〇月一七日夜から翌一八日朝にかけての請求人の行動について追及されたが、アリバイの供述が変転し、かつ、裏付け捜査によりアリバイがみなくずれ、六日夕食後の取調べにおいて明日本当のことをいうから考えさせてくれと言つたものの、取調官から促されて同日午後八時過ぎころ、自分が一人でやつたと自供し、一切を自白したもので、本格的取調べを始めてから一日半たらずで自白したものである。

その後同月一五日まで司法警察員及び検察官の取調べに対して自白を維持し、司法警察員の実況見分及び検察官の夜間検証にそれぞれ立会つて自白に沿う犯行の模様を指示説明したが、同月一五日夜取調官及び母あての犯行否認の手記を書いて翌一六日朝これを取調官に差し出して犯行を否認した。しかし、同日亀井警部の取調べを受けるや、母に会いたくて一日も早く無罪で出たいと考え、それには犯人でないといえば出られると思つて書いたが、手紙に書いたことはうそであると供述し、再び自白を維持した。

その後、同月二〇日検察官の取調べに対し、自白を覆えして犯行を否認し、一〇月一七日夜小牛田から汽車に乗つた後のことは記憶がなく、気がついた時は一八日朝午前六時ころ自宅の炉端に坐つていた旨を供述し、翌二一日の取調べではアリバイの説明がつかなく、さらに同月二八日の取調べに対しては、よく考えてみると鹿島台駅を出て料理店「二葉」の前で女中と立話しをし、それから県道に出て自宅に帰つて寝た旨、供述を変転させ、一・二審公判廷においても右同旨の供述をしている。

(2) 強制、誘導の有無

自白の強制、誘導等の有無についてみると、一審及び二審の証人亀井安兵衛等の各証言によれば、警察署における取調べにおいて、担当の取調官から頭を下げている請求人に対し頭を上げて話をきけと言つたことはあるが、請求人の主張するような額を小突いたり等して自白を強要し、あるいは誘導尋問をした事実があつたとは、認められない。請求人が右程度のことで精神的拷問をうけたものとは考えられない。

後述するように、請求人の自白のうち請求人が誘導尋問によらずいわゆる創作して述べたことが事実に合致し、あるいは重要な点で誘導尋問によらないで供述しているのであり、少くとも自白の大綱において誘導尋問により供述したものと疑うべき事由はない。

請求人は、留置場の同房者である高橋勘市から、ここへ来たらやらないこともやつたことにして裁判の公判の時に本当のことを言えばいいのだと教えられてうそのことを述べたと言うけれども、一審の証人高橋勘市の証言によれば、そのような事実は認められず、却つて、請求人自ら本件強盗殺人、放火事件(以下「松山事件」という。)は自分がやつたと話し、高橋から衣類の血は洗つても薬で調べれば誰の血か判ると話され、俺も悪運が尽きたから白状するかなあ等と言つたあとで自白したものであることが認められる。

(3) 自白の内容にもとづく検討

一審及び二審における請求人の供述によれば、請求人が自白のなかで被害者らの寝ていた順序を述べたのは取調官の誘導によるものではなく、河北新報の紙上に見取図が載つていたのでそれに書かれていた死体の順序を覚えていたのでそう述べたというのであり、なるほど、取調べにかかる昭和三〇年一〇月一九日付河北新報には見取図が載つていて、それには自白に沿う順序で死体があつた旨書かれているが、このように新聞記事を見てから五〇日も経てなおかようなことを正確に記憶しているということは、この事件に特殊の関心を持つている者でなければ通常考えられないことであり、何も関係がないと訴える請求人がその順序を正確に覚えていたということ自体却つて不自然である。

請求人の供述で幾度か変転しているのはアリバイの点だけで、自白については瓦工場の釜の中で時間を待つた点をつけ加え、薪割りのあつた場所を実地見分に立会つた結果訂正したほかは、細かい点で付加した部分があるだけである。

(二) 自白の真実性

次に自白の真実性を検討すると、請求人の自白は、掛布団の襟当てに付着していた血痕により科学的に殆んど決定的に裏付けられ、経験者でなければよく述べえないことを供述し、他の証拠により認められる事実と合致し、自白の内容に何等不自然、不合理なところがなく、却つてアリバイに関する請求人の供述は支離滅裂で信用できないので、これらを総合すれば、請求人の自白の真実性を肯認するに十分である。

分説すると次のとおりである。

(1) 掛布団襟当ての血痕による自白の裏付け

請求人の祖母斎藤きさの三一・二・四検面調書、三〇・一二・一七員面調書、兄常雄、その妻美代子の三一・二・四各検面調書及び司法警察員の三〇・一二・八捜索差押調書により、請求人が事件前から使用し、本件の一〇月一八日朝も着て寝ており、その後東京へ行くまで使用し、上京後は弟彰が使つたが他人が使用したことのない掛布団には、その主として襟当ての部分に限り、襟当ての布団表側に当る部分(以下「襟当て表面」という。)に約三五個、布団裏側に当る部分(以下「襟当て裏面」という。)に約五〇個の血液斑痕があつて、これらが人血の付着したものであり、それが一名の血液に由来するものであれば血液型がA型であり、二名以上の血液に由来するものであれば血液型がA型とO型のものが混在していること(三木敏行の三二・三・二三鑑定書、古畑種基の鑑定書、一審の証人三木敏行の証言)、これらの血液は噴出又は滴下して付着したものではなく軽く接触したり擦りつけたりして付着したものであること(同三木鑑定)がそれぞれ認められ、他方、三木敏行の三一・一二・一三、同一四各鑑定書、村上次男の三一・五・二、同三一各鑑定書によれば、被害者忠兵衛の血液型はO型、妻よし子、男の子優一、女の子淑子のそれはいずれもA型であることが認められ、また前記三木証言と古畑鑑定書によれば、請求人及び弟彰の血液型はB型、その他の家族のそれはB型又はO型であると認められ、請求人側においてA型の血液が襟当てに付着した事情は全く説明できないのであるから、請求人の頭髪に付着した、A型血液の被害者らのうち一名、二名ないし三名又はこれとO型血液の忠兵衛の血液が、請求人が布団を頭にかぶることによつて襟当て裏面に付着し、その際頭髪から手についた血が更に襟当て表面に付着したものである可能性が極めて高いと認めざるをえない(請求人は犯行後帰る途中大沢堤の溜池で顔にも血がついたかも知れないと思い顔を洗つたが頭髪は洗わなかつたことが認められる(請求人の三〇・一二・九員面調書、録音テープ)。)。

したがつて、請求人の自白の大綱は右掛布団襟当ての血痕によつて科学的に殆んど決定的に裏付けられているものといわざるをえない。

(2) ジヤンパー・ズボンの血痕不発見と自白

当時請求人が着用していたジヤンパー・ズボンには、二審の取調べにかかる平塚静夫の三〇・一二・二二、三一・二・六各鑑定書によつても、血痕斑が発見されなかつたが、請求人の捜査官に対する各供述調書と上部道子の検面調書によれば、ジヤンパー・ズボンは犯行後大沢堤の溜池で土を混ぜてごしごし洗つたばかりでなく、その後ジヤンパーは一〇月二七日ころ姉美代子が、ズボンは一一月一五日ころ東京の上部道子が洗つたことが明らかであるから、血痕斑が発見されなかつたとしても異とするにたらず、自白の真実性を否定することにはならない。

(3) 個々の供述の真実性

請求人はその自白において経験者でなければよく述べえないことを供述しており、またその供述は他の証拠によつて認められる事実に符合している。その主なるものは次のとおりである。

(イ) 瓦工場での休憩

瓦工場の釜の中で休んだという点については、鹿島台に帰つた時刻が午後一〇時ころで犯行時刻と合わず、その間遊んだことになるので同工場の釜の中で休んだことに創作して述べた旨弁解するけれども請求人はこれまでその釜の中で遊んだり、休んだりしたことがある(請求人の三〇・一二・一二員面調書)ので、時間を待つために休息する場所として究竟なところであり、アリバイの立たない請求人が思いつきで創作して述べたものとは認められない。

(ロ) 山道の通行

忠兵衛方まで割山の手前左側から入る山道を往復したとの点について、請求人は二審公判廷で事件のあつた部落に移動製材の仕事をしに行く時はよくそこを通つたのでそう述べたというのであるが、同部落に行くには通常右山道は通らない道で請求人もそれまで夜間右山道を通つたことは一度もないことを認めており、また検察官の夜間検証の際「あの晩ここまで来る途中この辺で躓いたように記憶する。」とか「あの晩はもつと暗かつたと思う。」とか指示説明し(検察官の三〇・一二・一三検証調書)ており、これらは経験者でなければよく述べえないところと認められる。

そして、請求人が右山道を通つた点については、一審の佐々木立平証言によつて認められる事実、すなわち、事件の一〇月一八日午前二時すぎころ右山道に沿う同人方の飼い犬が唸つた事実によつても裏付けられる。

(ハ) 忠兵衛方の状況についての供述

忠兵衛方の前で一〇分位中の様子を窺つてから玄関の戸を開けたこと、施錠の有無、電灯の数、その所在場所及び明るさ、屋内の状況に関する供述については、請求人の二審公判廷における供述によれば、請求人は一度も忠兵衛方に行つたことはないが捜査官からきかれて創作して述べたというのである。

しかし、忠兵衛方では四〇ワツトの裸電球一個だけ吊してあつて点灯のまま寝ていたことが小原優子の第三回検面調書で認められるので、請求人のよい加減の供述が偶然事実に合致したものとは考え難く、右供述は経験者にして初めて述べうるところであり、創作して述べた供述とは認められない。

(ニ) 忠兵衛方家族の就寝状況についての供述

被害者らが寝ていた状況につき、請求人の一~二審公判廷の供述によれば、取調官の誘導尋問によつつて述べたものではなく、河北新報に載つた見取図入りの記事を読んで死体のあつた順序を覚えていてその記憶に基いて述べたというのであるが、新聞記事を見てから約五〇日もたつてなおかような順序を正確に記憶しているということは、この事件に特殊の関心を持つている者でなければ通常考えられないところであり、ことに、仰向けに寝ていたとか奥さんの方を向いて寝ていたとかという点は新聞記事には載つていないのであり、これらの供述は経験者にして初めてよく述べうるところである。

そして、請求人が述べた被害者らの寝ていた順序は三〇・一〇・一九河北新報の見取図記載及び司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書の被害者らの位置関係に符合する。

(ホ) 足に「ツカア」としたという供述

木小屋に入つて行くと足にツカア(痛いの意)としたので、杉葉だと思つたという供述につき、請求人は、二審公判廷において、取調官の誘導尋問により述べたのではなく、火をつけるには杉葉か何かがよいと思い、請求人の方から杉葉と言い出したと述べているが、木小屋に杉葉があつたことは他の証拠(木皿正二の三〇・一二・二六員面調書、一審裁判所の三一・五・二六検証調書)によつて明らかであつて、請求人の右供述が単に偶然事実と一致したとは認められない。

(ヘ) ジヤンパー・ズボンの洗濯とトラツクの通行

帰る途中山道と割山の県道に出る中間頃で振り返つて見ると忠兵衛方が赤くなつて燃えており、その時ズボンに触つてヌラヌラとしたので血が一杯ついていると感じ、そのままでは帰れないと思い、大沢堤の溜池でズボンとジヤンパーを脱ぎ、ズボン、ジヤンパーの順に土手の土を混ぜて洗い、しぼつてズボンをはいた、洗濯する前に手や顔にも血がついているかも知れないと思い、手と顔を順次洗い、足も腰の下辺から洗つたが、髪は洗わなかつた、ズボンをはいている時トラツクが船越の方から来る音がしたので見つけられると大変と思つて山の方に歩いて杉山にかくれた、杉山に行く途中トラツクが通り過ぎたが、ライトをつけていたように思うとの供述について、請求人の二審公判廷における供述によると、取調官から、燃えたかどうか確かめなかつたか、血がつかなかつたか、血がついていると知れば洗うかしないと人に判られてしまうだろう、衣類に血がつくくらいなら、手足や顔にもついたのではないか、馬車か車に会わなかつたか、時間的にみて会わないとおかしい等ときかれて述べたというのであるが、ジヤンパーやズボンを洗う時土を混ぜて洗つたとか、手足や顔を洗つたが頭髪は洗わなかつたとかは経験者でなければよく述べえないことであり、また供述内容は、歩行に要する時間について検証した検察官の三〇・一二・一三検証調書、請求人の自供にもとづいて火災の推移状況について鑑定した永瀬章の鑑定書、同じく自供によりトラツクの運転とその時刻について捜査した鳥海等の三〇・一二・九、村上重一の三〇・一二・一二各員面調書によつて認められる事実により裏付けられている。

(ト) 杉山での休憩

杉山で約二時間休み、薄明るくなつてきたので、午前六時前後ころ帰つたが途中下駄を持つて素足になつて走つたという供述も経験者にしてよく述べうることで、創作して述べたものとは認められないうえ、供述内容についても検察官の三〇・一二・三〇検証調書、一審の証人佐々木しづを、同奥寺剛、同斎藤礼子の各証言により事件の日の明け方五時ころ素足で走るような音が付近の者に聞こえた事実が認められることにより裏付けられる。

(チ) 検察官検証の際の指示説明

請求人は検察官の検証(三〇・一二・一三検証調書)の際、木小屋に立てかけてあつた稲杭について、あの晩稲杭にぶつかつた記憶がないから多分あの晩はこの稲杭はこの位置に立てかけてなかつたのではないかと思う、と指示説明したが、この供述にもとづいて捜査した木皿正二の三〇・一二・二六員面調書により、右稲杭は事件後に立てかけられたもので事件当時はその位置になかつたことが裏付けられ、請求人がよい加減に述べたことが偶然事実に合致したものとは認められない。

(リ) 自在鈎の発見

忠兵衛方の炉に天井から自在鈎がかけてあつたようである旨の供述があるが、これは事件直後の実況見分では自在鈎が発見されていず、請求人の自供にもとづいてさらに現場を探した結果その自在鈎が発見されたこと(司法警察員の三〇・一二・七発見捜査報告書)に符合する。

(ヌ) 岩窯の位置等

その他、請求人の自白のうち、忠兵衛方の岩窯の位置、犯行後兇器を置いたという位置、殺害後何か押入れから取り出して忠兵衛夫婦の顔にかけたこと及び放火の具体的な方法は、事件直後の実況見分の結果(司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書)、永瀬章の鑑定書、一審の証人大窪留蔵の証言、三木敏行の三一・一二・一三、村上次男の三一・五・二各鑑定書により認められるところと符合する。

(4) 兇器と創傷等との符合、殺人放火の順序

請求人は薪割りをもつて忠兵衛らを殺害した後放火したことを自白している。自白のうち兇器が薪割りである点については、荒井晴夫、丹羽口徹吉共同鑑定書により、薪割りの表面にみられる条痕は、頭髪が人血液により粘着して加熱されたものであることが明らかであり、他方右薪割りの刃渡りが約八センチメートルであるのに対し、被害者忠兵衛の受けた頭部割創が三木敏行の三一・一二・一三鑑定書により刃線の長さ八センチメートル以上ある、かなり重い刃器により生じたものと推定され、証拠上他の被害者らについても同様のことが言えることによつてその自白が科学的に裏付けられているし、殺害後放火したという順序については三木敏行の三一・一二・一三、同一四各鑑定書、村上次男の三一・五・二、同三一各鑑定書により被害者らがいずれも死亡後死体の焼焦を受けたことが認められることにより裏付けられる。

(5) 自白の動機

一審の証人高橋勘市の証言によれば、請求人は高橋と同房すると深夜うなされるので、同人がそれまで殺人犯人と二回同房した経験から請求人も大罪を犯してきたなと感じたこと、請求人から松山事件を打ち明けられ、ズボンに着いた血は洗つても誰の血か判るかときかれ、薬を使つて調べれば判るさと答えると、請求人が俺も悪運が尽きたから白状するかな等と言い、その翌日の夜、調べから帰つてくると、やつて来た、白状してきたと明るい顔に変つていて、階段を上る時新聞記者に写真を撮られたが、家族に見られると困ると言つていたことが認められるので、これは自白の真実性を物語る一資料といえなくはない。

(6) 犯行の動機

当時請求人が飲食店その他に六、七千円の借財があつたことは事実であり、飲み代がほしかつた旨員面調書で述べている請求人の自供は首肯できる。また請求人が料理店「二葉」の女中渡辺智子に愛着を覚え、母に打ち明けて結婚の許しを貰いたいと願つたが賛成して貰えず、親が反対なら家出しても一緒になろうと考えたこと、智子には前借金が二万円あると聞いていたことを犯行否認後の請求人の検面調書(三〇・一二・二八、同二九)及び一審公判廷の供述のなかで述べているが、この供述内容は他の証拠によつて裏付けられるし、請求人は犯行の二―三日前の午前中忠兵衛の妻が請求人の兄から増築するための材料を買つて行つた状況を見て知つていたから、二~三万円くらいの現金があるだろうと思つていた旨を最初の自白の際(三〇・一二・六員面調書)述べているが、忠兵衛の妻が材料を買いにきた際、請求人が自宅におり、その状況を見聞できる状況にあつたことは祖母斎藤きさの三〇・一二・一九検面調書により認められ、右自供を裏付けている。

したがつて、請求人が右最初の自白のとき建築の材料を買うくらいなら忠兵衛方に二~三万円くらいの金があるだろうと思つて盗みに行く気になつたと供述しているのは、決して偶然とは考え難い。

(7) 留置場の房内の落書き

そのほか請求人が留置されていた古川警察署留置場第一監房の東側板張りに落書きしたと認められる文言も自白の真実性を支持する一資料といえなくはない。

(三) 請求人のアリバイ

請求人のアリバイの主張は事件当夜の行動につき、「一〇月一七日夜一〇時ころ鹿島台駅で下車し母の所に泊つた。」、「鹿島台の金山という朝鮮人の屋台店で飲んでから柴和喜雄の家に泊つた。」、「小牛田駅で汽車に乗つたことは覚えているが、翌朝六時ころ家の炉端に坐つているのに気付き、その間のことは全然判らない。」と次々に変転し、その都度裏付け捜査によつてその主張がくずれ、遂に司法警察官に対して犯行を自白したが、その後検察官に対してこれを否認し「小牛田駅で汽車に乗つてから翌朝六時ころ自宅炉端に坐つているのに気付くまでのことは全然判らない。」、「鹿島台の阿部製材所のトラツク運転台に寝たことがある。」、「鹿島台駅で下車して料理店二葉の女中と立話しをしてから午後一〇時半ころ自宅に帰つて寝た。」と供述が変転し、二審公判廷においても右最後のアリバイ供述を維持している。

請求人は事件当夜その飲酒量からみて問題にならないほどの酔いであり、前夜汽車に乗つてから翌朝自宅炉端に坐つているのに気づくまでの間のことは全然判らないなどということはもちろん、世間を騒がした松山事件のあつた夜の行動につき供述が変転してよくこれを述べえないことはとうてい理解できないことである。

そのうえ、前記アリバイ主張のうち最後の分についてはこれにそう二審公判廷における兄斎藤常雄の証言並びに同人夫妻及び両親の各上申書が信用できず、そのほかの証拠によつてもその事実を確認できないのであり、その他のアリバイ主張については裏付け捜査によつてすべてその事実が否定されている。

二  証拠構造の要約

以上の確定判決挙示の証拠及び二審判決の説示を総合して考察すると、確定判決が有罪の心証を形成した証拠構造のうち中核をなすものは「本件強盗殺人・放火犯行とその前後にわたる請求人の行動について、これを認める請求人の自白があり、この自白は請求人と犯行とを直接に結びつけるものであるところ、自白の任意性には疑いがなく、その真実性についても、請求人使用の掛布団襟当てに三木鑑定及び古畑鑑定により表裏合せて八五個の血痕があつて、この血痕にA型か又は二名以上の血液に由来するものならばその他にO型の人血が混在しているものとされており、この鑑定結果と他の証拠をも総合すれば右血痕に被害者らの全部又は一部の者の血液が付着している可能性が極めて高いと認められ、したがつて、この血痕の存在により自白の大綱が科学的に、殆んど決定的に裏付けられていること、自白の個々の内容も経験者でなければよく述べえない供述を含み、他の証拠や事実とも符合し、供述に不自然、不合理なところがないこと、その外自白の動機及び経緯(アリバイがみなくずれ、同房者から衣類の血は洗つても薬を使つて調べれば判るさと言われ、俺も悪運がつきたから白状するかなと言つた後自白したこと及び自白の時期等)に照らしても、十分その真実性が認められるものである。これに対し、自白のなかで請求人が事件当夜着用していたと認められるジヤンパー・ズボンから平塚鑑定の結果返り血の血痕斑が発見されなかつたが、これは事件後同鑑定までにジヤンパー・ズボンがそれぞれ二度にわたつて洗濯をへているので、血痕反応が顕われなくても異とするにたらず、自白の真実性を否定することにはならない。」というにあるものと思料される。

第三一次再審請求と二次再審請求の経過

一  一次再審請求の経過

請求人は、昭和三六年三月三〇日仙台地方裁判所古川支部に対し、右確定判決に対する再審請求(以下これを「一次再審請求」という。)をしたが同裁判所において昭和三九年四月三〇日再審請求棄却の決定がなされ、この決定に対する即時抗告について昭和四一年五月一三日抗告棄却の決定が、次いでさらに特別抗告につき昭和四四年五月二七日特別抗告棄却決定があり、一次再審請求についての請求棄却決定が確定した。

二  一次再審請求の理由と請求棄却決定の理由の骨子

1  請求理由の骨子

(一) 刑事訴訟法四三五条二号、四三七条の事由

証人高橋勘市の一審証言は偽証である。

(二) 同法四三五条六号の事由

(1) 襟当ての血痕偽造

掛布団の襟当てに付着している血痕は、掛布団が押収された後捜査機関によつて捏造された虚偽の証拠であつて請求人の犯行を認める証拠とならないし、請求人の自白は虚偽である。

二審判決は、右掛布団襟当ての血痕は犯行現場において被害者らの血液を頭髪に受けた請求人が就寝中襟当てに付着せしめたもの(二次的付着)又は頭髪から請求人の手につき更にこれにより襟当てに付着したもの(三次的付着)と認定した。

しかし、以下の理由によりそれは誤りである。

(イ) 掛布団は弟の使用物

右掛布団は請求人使用のものではなく、弟彰が使用していたものである。

(ロ) 二次的、三次的血液の付着ではない

司法警察員が右掛布団を押収した当時に撮影した襟当ての写真にはただ一個のしみ(それは失印で指示され血痕と記載されている。)が見えるだけであつて、三木、古畑鑑定の際にみられたような多数の血痕が押収当時から存在したとすればそれが同写真に写つていなければならない。

右各鑑定書及び付属写真にみられる血痕のつき方及び血痕の形状に照らしても、二次的付着又は三次的付着とするのは不自然である。

襟当てには散在的に血痕が存するのに掛布団両端部分及び敷布、枕カバーには血痕が付着していないのは不自然である。

掛布団襟当ての血痕が二審判決認定のような二次的又は三次的付着では絶対ありえないことは、新証拠である船尾忠孝の三六・一一・一八鑑定書、弁護士守屋和郎外三名の三七・五・三一実験報告書、北条春光の三八・一二・三〇鑑定書(二)及び船尾忠孝の三九・一・一四鑑定供述によつて明らかである。

(2) ジヤンパー・ズボンには当初から血痕付着がなかつた

請求人が犯行当時着用していたというジヤンパー・ズボンには当初から血液が付着していなかつたことが証明されるので、ジヤンパー・ズボンの処理に関する供述の変転と合わせ、請求人の自白は虚偽である。

(イ) 平塚三〇・一二・二二鑑定は血痕斑を認めない

請求人の自白によれば、犯行直後ズボンに触つたらヌラヌラしたというのであるから、この自白が真実ならばズボンにはかなりの量の血液がついたと考えられ、ジヤンパーにも同様に血液が付着したと考えなければならない。

二審公判廷において取調べられた平塚静夫の三〇・一二・二二、三一・二・六各鑑定書によりジヤンパー・ズボンの血痕斑が発見されなかつたことについて二審判決は血痕斑が発見されなくてもジヤンパー・ズボンは犯行後二度洗濯されたから何ら異とするに足りないと判示した。

(ロ) 洗濯しても血痕反応は残る

しかし、新証拠である船尾忠孝の三七・六・二五血痕検査成績と題する書面、同三七・八・二〇松山事件報告書、前記船尾鑑定供述、村上次男の三七・一〇・一鑑定供述、平塚静夫の三七・一〇・二二鑑定供述によれば、多量の血液が一度着衣に付着すれば、二度ぐらいの洗濯では血痕検査成績が陰性になるものではないことが明らかになつた。

(3) 薪割りは本件犯行の兇器ではない

自白のなかで兇器とされている薪割りは本件犯行の兇器ではなく請求人の自白は虚偽である。

その理由は次のとおりである。

(イ) 条痕と加熱温度

司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書によると、右薪割りは被害者らの死体の近くから柄が焼け落ちた刃部だけの状態で発見され、これには荒井晴夫・丹羽口徹吉共同鑑定書によると、条痕があり、この条痕は毛髪が人血液で粘着し三〇〇度Cないし三五〇度Cに加熱された結果生じたものと推定されるとされ、なお毛髪を血液で鉄板に粘着させて加熱実験した結果によると四〇〇度c以上に加熱すると毛髪は灰化して条痕を残さず、六〇〇度c以上の加熱では鉄板表面は剥離してしまうとされている。

(ロ) 薪割りの被熱温度

他方、新証拠である前記船尾松山事件報告書によると、右薪割りには、近くの死体が焼焦される際に受けたと推定される六〇〇度c以上と同程度の加熱があつたものと推定できるとされており、また薪割りの柄の加熱実験をした椙山正孝の三八・五・二〇実験報告書から推定しても薪割りには三五〇度c以上の加熱があつたものと認められ、さらに今井勇之進の三九・二・六鑑定書(二)によれば、本件の薪割りにはその金属組織からみて四〇〇度cから五〇〇度cの範囲の加熱があつたことが判明した。

(ハ) 条痕は後日工作されたもの

そうだとすると、薪割りには条痕が残る筈はなく、現に存在する条痕は薪割り発見後捜査機関によつて工作されたものである。

(ニ) 薪割りに血痕反応がない

検察官から昭和三八年一二月一二日提出された平塚静夫から松山事件捜査本部に対して本件薪割り外三点についての鑑定結果を報告した三〇・一〇・二六電話箋、古川警察署千葉警部補が平塚静夫から同薪割り外一点についての鑑定結果の連絡をうけた三〇・一二・二七電話箋(二通)、平塚静夫の三八・一一・二五検面調書(いずれも新証拠)によると薪割りの血痕反応はベンチジン、ルミノール各検査ともその結果がいずれも陰性であつたことが認められる。

しかし、新証拠である前記今井鑑定書(ニ)によると、市販の薪割りと同質と考えられる綱片に人血を塗つて加熱実験をした場合、ルミノール、ベンチジン等による検査結果は五〇〇度cまでの加熱で陽性を示したから、本件薪割りが真実兇器であるならば、前記(ロ)に述べた被熱温度に照らし、血痕反応が陽性に出なければならない。

しかるに、前記電話箋等により平塚静夫の検査の結果、反応が陰性を示したことが明らかであるから、薪割りは本件犯行の兇器ではない。

(4) 電灯は消えていた

被害者方の近隣の者の供述によると、本件の犯行直前に被害者方の電灯は消えていたことが証明される。したがつて、電灯がついていたことを前提として犯行当時の状況を詳述した請求人の自白は虚偽である。

(5) 高橋勘市の一審証言は偽証

新証拠である証人高橋勘市の証言(三八・七・八一次再審請求の審理で施行)、門間隆夫の口述書及びTBS録音放送テープ等の証拠によると、請求人が犯行を自白するにいたつた経緯についての一審公判廷における証人高橋勘市の証言は偽証であるので、この点からも請求人の自白は虚偽である。

2  請求棄却決定理由の骨子

(一) 刑事訴訟法四三五条二号、四三七条の事由として主張しているところ(高橋勘市の偽証)はその要件を具備しない。

(二) 同法四三五条六号の事由

(1) 掛布団襟当ての血痕について

掛布団が請求人使用のものでなくその弟彰の使用のものであるとの点については何らの新証拠もない。

押収当時に撮影した襟当ての写真には確かに一個の斑痕が矢印で指示して「血痕」と記載されているが、右写真を拡大鏡を用いて仔細に観察すると、その外にも斑痕様のものが観られるし、三木敏行の三二・三・二三鑑定書及びその付属写真によると大部分の斑痕は極く微小で色彩もうすいものであり、三木鑑定ではこれを二四枚の写真に分けて撮影しているが、これを小さな一枚の写真にし、斑痕を数多く明瞭に写し出すことは困難であると認められるから、前記写真の写り方とその記載を根拠にして襟当てに押収当時一個の斑痕しか存在しなかつたということはできない。

また、頭髪に付着した血液がどれほどの時間にどの程度乾燥するかは、付着した血液の量、血液の付着状況、付着後の処理の仕方、当時の温度、湿度、気圧その他諸々の条件やその組み合せいかんによつて異なるから、一~二の実験例によつて、すべての場合に頭髪に付着した血液が二~三時間のうちに水分を失い、他の物体に二次的に付着することはないと結論し、あるいは実験例では敷布や枕カバーにも血痕が付着したから他の場合にも同様であると結論することはできない。

請求人が新証拠として提出した鑑定書や報告書は本件の具体的条件を考慮しての実験にもとづくもので、その実験結果には異論はないが、血液付着の能否に影響を及ぼす前記のような条件が本件の場合と実験の場合とで完全に又は極めて高度に一致するとはいえない。

なお、新証拠である船尾鑑定書によつても、加害者の頭髪に付着した血液は、付着後外気にふれつつ二時間ないし二時間半を経過しても他の物件に二次的に付着することはありうることが認められる。

請求人の供述するような状況のもとにおいて請求人の頭髪に付着した血液が本件襟当てにあるごとく左右両端部分にも広く散在的に多数付着し、しかも襟当ての外側にも同様に付着するものであろうかという点については少なからぬ疑問を感ぜざるをえないが、逆にかかる血痕の付着を生ずることが絶対に、あるいは高度の蓋然性をもつてありえないことであるという証拠はない。

(2) ジヤンパー・ズボンの血痕反応について

(イ) 一審決定

請求人が供述する犯行当時着用していたというジヤンパー・ズボンと血痕検査がなされたジヤンパー・ズボンは判決確定にいたるまでの審理手続においていずれも証拠調べがなされていないので、両者が同一であるかどうか、すなわち請求人の犯行当夜の服装が血痕検査のなされたジヤンパー・ズボンであるかどうかは必ずしも明確とはいえないが、ジヤンパー・ズボンについて前記平塚鑑定がなされた経過に照らし、両者は同一物であると認められる。

ところで、請求人が犯行当夜着用していたジヤンパー・ズボンは請求人の自白及びその他の証拠によれば、犯行直後とそれぞれ二回ずつ洗濯されたことになつているところ、請求人の鼠色ジヤンパーと茶色ズボンについて昭和三〇年一二月二二日平塚静夫がベンチジン間接法により検査した結果ジヤンパーからは血痕斑を発見できず、ズボンからはその左前下方に粟粒大の血痕斑一個を発見しえたが、それが人血か否かは不明であつたとされており(同人の三〇・一二・二二鑑定書)、また新証拠である船尾忠孝の血痕検査成績によると、同人が昭和三七年五月二〇日から同年六月二五日まで前記ジヤンパー・ズボンについてベンチジン直接法により検査した結果ジヤンパーには血液の付着を証明できず、ズボンには左前股ボタン付近に人血斑痕一個を証明できたにすぎないことが認められる。

しかして、新証拠である証人船尾忠孝の証言及び同人の松山事件報告書によれば、人血が一cc以上衣服に付着した場合には入念に洗濯しても血痕予備試験であるベンチジン直接法によつた場合血痕検査成績が陰性になることはなく、血痕予備試験が陰性であれば当初から血液が付着していなかつたと推論することが法医学の実際上極めて妥当である、とされている。

そこで、前記平塚鑑定及び船尾血痕検査成績でジヤンパー・ズボンの血痕反応がごく一部を除いて陰性であつたことから、ジヤンパー・ズボンには当初から血液が付着していなかつたものと推論することが妥当かどうかであるが、前記平塚鑑定はベンチジン間接法によつたものであり、前記船尾血痕検査成績及び松山事件報告書においても、直接法ならば陽性を示す場合にも間接法による場合陰性になることがありうることを否定していないので、平塚鑑定で血痕検査が陰性であつたことから直ちにジヤンパー・ズボンに当初から血痕が付着していなかつたものと推論することはできないし、また前記船尾血痕検査成績はベンチジン直接法によつたものであるが、その検査がなされた昭和三七年五月まで犯行時からすでに六年七、八か月を経過しており、その間に前記洗濯以外にも血痕検査成績に影響を及ぼす条件の介入する可能性があるから、その血痕検査の結果が陰性であることから直ちにジヤンパー・ズボンに当初から血痕の付着がなかつたものと推論することは右の条件の介入する可能性を全く無視する点においてかなり困難である。

新証拠はそれのみでは「明白な証拠」とはいえない。

(ロ) 抗告審決定

請求人の事件当夜の服装が問題のジヤンパー・ズボンであるかどうかについて確定判決をした一審裁判所及びこれを肯定した二審裁判所で証拠調べをした形跡もなく、押収もされていないが、請求人の捜査官に対する各供述調書(三〇・一二・六(員面)、同一一(検面)及び同二一(検面))によると、請求人は犯行を自白した際も否認した際も一貫して事件当夜の服装は鼠色ジヤンパーと茶色ズボンを着用していたことを供述しており、捜査段階においてはその自白にもとづきジヤンパー・ズボンの血痕付着の有無について前記平塚静夫に鑑定嘱託がなされており、二審判決も事件当夜の服装が右血痕検査のなされたジヤンパー・ズボンであることを前提として判断をくだしているのであるから、再審請求の理由の当否を判断するについても、事件当夜の請求人の服装は一応右ジヤンパー・ズボンを着用していたものとして考察するのが相当である。

しかして、平塚鑑定はジヤンパー・ズボンについてベンチジン間接法のみならず一部直接法も併用して検査したものであることが証人平塚の証言(原審)により認められるけれども平塚鑑定書の記載が簡略にすぎ、精密な検査が行われたものとはとうてい認められないし、また証人船尾の証言や同人の松山事件報告書にいうところの、ズボンにヌラヌラと多量の血液が付着した場合、これを普通の方法で二回洗濯しても血痕予備試験であるベンチジン反応が全く陰性化することはないという鑑定結果は、証人平塚、同村上次男の各証言(原審)と対比して、必ずしも反論の余地がないほど明白なものとは認められない。

(3) 薪割りと兇器について

荒井、丹羽口共同鑑定書によると、鉄板に頭髪を人血液で粘着させて加熱実験した結果、三〇〇度cから三五〇度cで加熱したものの条痕の状態、色沢等が本件の薪割りの条痕のそれに酷似するが、三七〇度cの加熱では頭髪、血液の炭化甚だしく、四五〇度c以上では灰化し始め、五〇〇度c以上では全く灰化するとされている。しかし、人血液で粘着された頭髪を加熱したときの条痕の状態や色沢等は加熱温度のみならず加熱時間等のいかんにより差異がありうると思われるのに右鑑定では加熱温度のみが明らかにされ、加熱時間等については明らかにされていない。右鑑定では本件薪割りの条痕が右実験結果と酷似していることから、本件薪割りに三〇〇度cから三五〇度cの加熱があつたことを結論しているものではない。

したがつて、新証拠である今井鑑定書(二)、船尾松山事件報告書及び椙山報告書はそれぞれの方法で本件薪割りの被熱温度を推定しているけれども、これらの推定と前記荒井・丹羽口共同鑑定書の結論とが矛盾するものではない。

次に、新証拠である検察官提出の平塚静夫の三〇・一二・二六「鑑定結果の回答について」と題する電話箋、平塚静夫の三八・一一・二五検面調書によると、平塚静夫が昭和三〇年一〇月二五・六日ころ薪割りの血痕付着の有無について鑑定した結果は陰性であつたことが認められる。しかし、この検査は薪割りのどの部分をどの程度綿密に行つたのか明らかでなく、今井鑑定書(二)の実験結果と必ずしも矛盾することにはならないし、今井鑑定書(二)も新証拠である村上、赤石の三九・三・二四鑑定書と対比すると常に必ずしもその結論が妥当するとはいえない。

したがつて、平塚鑑定による血痕検査が陰性であつてもこのことから薪割りが本件の兇器であることを否定することはできない。

新証拠である北条春光の三八・一二・三〇鑑定書は被害者淑子の頭部截痕の一部が本件薪割りによつては出来にくいように思われるというが十分の根拠があるとは言えない。

(4) 電灯が消えていたとの点について

請求人から右主張に対する新証拠として三〇・一〇・二二河北新報の写二枚等の証拠が提出されたがいずれも証拠能力のある証拠とは認められない。

(5) 高橋勘市の偽証について

新証拠として提出された証拠はいずれも高橋の偽証を認める明白な証拠とはいえない。

(6) 結び

新証拠のすべてを、請求人の自白を含め、判決確定にいたるまでの審理において取調べられた全証拠と総合して判断しても、新証拠はいまだ無罪を言い渡すべき明らかな証拠に該当するとの結論に達しない。

三  二次再審請求の経過

1  再審請求と古川支部の決定

請求人は昭和四四年六月七日前記確定判決に対し仙台地方裁判所古川支部に第二次再審請求(以下「本件請求」という。)をし、同裁判所は同請求に対し昭和四六年一〇月二六日本件請求を棄却する旨の決定をし、請求人からこれに対し即時抗告をしたところ、抗告裁判所において昭和四八年九月一八日右原決定を取り消し、事件を仙台地方裁判所に差し戻す旨の決定があり、当裁判所が本件請求を審理することとなつた。

2  抗告裁判所の決定要旨

抗告裁判所が原判定を取り消し事件を差し戻した理由の要旨は次のとおりである。

「刑事訴訟規則二八六条は、(中略)、再審制度が個々の裁判の事実認定の誤りを是正し、有罪の言渡しを受けた者を救済することを目的とするところから、再審請求人の意見を十分酌んだ上で再審請求理由の有無を判断することが望ましいとしてもうけられたものと解すべく、右の趣旨にかんがみると、手続の進展にともない意見を表明しうるよう機会を与えなければならないところ、原手続においては、刑事訴訟法四四五条による事実の取調べとして証人一名、鑑定証人二名の取調べをしたほか鑑定証人石原俊の尋問を行うことを決定しながら、その尋問期日を取り消したのみで証人尋問そのものについては取り消したものと解し難い前記尋問期日の取消し決定をなし、弁護人からの石原証人尋問期日指定の申立てにも何ら応答することなく、請求人に対しては事実取調べは未了であるから事実取調べ終了後に改めて意見を述べる機会があるとの期待をいだかせた状態のまま、再審請求棄却の決定を行なつたことにより、請求人に対し意見を述べる機会を与えない結果を招来せしめたもので、結局原裁判所の右一連の手続は刑事訴訟規則二八六条に定める請求人の意見陳述の機会を奪つたものといわざるを得ず、原裁判所の右訴訟手続違反は再審制度の存在理由ないし目的に反する手続違反であり、原裁判所はその審理を尽さず決定をなしたものというべきであるから、その手続違背は決定に影響を及ぼすことが明らかであり、取消しを免れない。」

第四本件請求の審理

一  請求の理由と新証拠の提出

本件再審請求の理由は、別紙、弁護人島田正雄外一二名作成の「再審理由の追加申立てを含む弁護人の最終意見書」記載のとおりであり、請求人が新証拠として援用した証拠は同意見書中の「新証拠一覧表」記載のとおりである。

二  検察官の意見

別紙検察官作成の意見書記載のとおりである。

三  事実の取調べ

当裁判所は事実の取調べとして次の証拠等を取り調べた。

1  前記差戻し決定前の原案である古川支部における証拠(いずれも弁護人の請求による。)

(一) 鑑定書四通(木村康四四・五・一、宮内義之介四四・三・一〇(参考資料として中島敏著「血痕の血液型検査に関する研究」と題する論文を含む。)、石原俊四五・一二・七及び四六・九・二五)

(二) 証人平塚静夫四六・六・二五、同宮内義之介四六・七・九、同木村康四六・七・九

(三) 日本家庭用合成洗剤工業会作成の「合成洗剤等統計資料」と題する書面二通

(四) 斎藤美代子の四六・七・一六弁護人に対する供述録取書面

2  前記抗告審における証拠(弁護人の請求による。)

遠藤道子の四六・九・二五弁護人に対する供述録取書面

3  当審において取調べ請求のあつた証拠

(一) 検察官請求の分

(1) 平塚静夫作成の三一・一・五「鑑定結果の回答について」と題する伺案(同人の三〇・一二・二八鑑定書添付)、古川警察署長から宮城県警察本部刑事部鑑識課長宛三〇・一二・二二鑑定嘱託書、押収にかかる掛布団を撮影したネガフイルム一〇枚(昭和三〇年一二月二二日と日付の記載がある紙袋在中のもの、昭和五一年押第一四号の五)及びその焼付写真一〇枚並びに右伺案及びネガフイルムの任意提出・領置関係の書面

(2) 証人高橋建吉五一・一二・六、同石垣秀男五一・六・七、同鈴木隆五一・六・七

(3) 須山弘文五二・八・七鑑定書

(二) 弁護人請求の分

(1) 証人斎藤ヒデ五一・七・二二、同青木正芳五一・七・二二、同石原俊五一・一二・二、同木村康五一・一二・二

(2) 木村康五三・九・二七及び渡辺博司五四・二・九各鑑定書

(3) 押収にかかる宮城県警察本部長の「松山町の一家四人おう殺並びに放火事件検挙について」と題する文書(同押号の六)

(4) 事件現場の検証五三・一一・一三

(5) 請求人本人五一・六・一七及び五四・一・一〇

(6) 村上重一の五四・三・二五弁護人に対する供述録取書面

(三) 双方請求の分

証人平塚静夫五一・五・二四、同木村康五三・一二・一八、同須山弘文五三・一二・一八、同三木敏行五四・一・二〇

(四) 取寄せにかかる、記録その他の証拠

(1) 前記確定判決の事件記録及び一次再審請求事件の記録全部

(2) 押収にかかる襟当て一枚(同押号の一)、ジヤンパー一着(同二)、ズボン一本(同三)及び掛布団一枚(同四)

(3) 押収にかかる請求人の司法警察員に対する三〇・一二・九供述を録音したテープ一巻(同押号の七)

(4) 裁判不提出記録六冊(第九ないし第一四分冊)

第五当裁判所の判断

一  上級審裁判所の判断の拘束力

検察官は次のように主張している。

本件再審請求について、仙台地方裁判所古川支部がした請求棄却の決定を取り消し、事件を差し戻した、抗告裁判所の決定の趣旨は、原審の審理手続において証人石原俊の尋問を決定しながら、その尋問期日を取り消したのみで、弁護人からの同証人尋問期日指定の申立てに何ら応答することなく、請求人に対して事実取調べ終了後あらためて意見を述べる機会があるとの期待をいだかせたまま、右意見を聴くこともなく再審請求を棄却したことが刑事訴訟規則二八六条に反する、手続の違背に当るとしたものであり、再審請求理由についての判断に誤りがあるとしたものではない。そして、その差戻し審においては手続違背があるとされた石原証人の取調べ等の手続が履践されて瑕疵が治癒されており、かつ、右石原証人の証言や同人の鑑定書は刑事訴訟法四三五条六号の要件をみたす証拠に当らないから、前記古川支部と同様に再審請求を棄却する決定をなすべきものであり、それ以上に本件の再審理由についてあらためて判断をなすべきではない。と。

原裁判である前記古川支部の決定を取り消し、事件を差し戻した抗告裁判所の決定の趣旨が検察官主張のとおりであることに異論はない。

しかし、右抗告審決定の全趣旨から判断するに、上級審裁判所である抗告裁判所の右判断のうち、下級審の当裁判所を拘束するのは、石原証人の取調べ未了のまま請求人の意見陳述の機会を与えず再審請求を棄却したことが訴訟手続の法令違背に当るとしたその趣旨のみに限られ、その外には手続の面でも実体判断の面でも何らの拘束力もないものと解すべきである。

したがつて、差戻しを受けた当裁判所としては手続の違背があるとされたその手続を是正し、瑕疵を補充し、必要と認める審理をさらに重ねたうえ、再審請求理由の有無を、差戻し前の原審とは別個の立場で判断すべき権能と職責を有することは多く論ずるまでもない。

二  刑事訴訟法四三五条六号所定の「明白性」の判断方法と判断基準

同法四三五条六号の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかのいわゆる明白性の判断については、すでに最高裁判所昭和五〇年五月二〇日決定(いわゆる白鳥事件決定)においてその判断の方法と基準が示されているので、当裁判所の判断も右決定で示された方法と基準にしたがつて行うのが相当であると思料する。

右白鳥事件決定によると、「同法四三五条六号にいう『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきである。」、「右の明らかな証拠であるかどうかはもし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである。その判断に際しても、再審開始のためには確定判決の事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、『疑わしいときには被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される。」とされている。右決定の全趣旨からすれば右原則を具体的に適用するにあたつては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を必要とするものではなく、確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくことを必要とし、かつ、これをもつて足りると解すべきであるから、犯罪の証明が十分でないことが明らかになつた場合にも右の原則があてはまるものというべきである(最高裁判所昭和五一年一〇月一二日決定(いわゆる財田川事件決定)参照)。

本件確定判決において有罪の事実認定の心証を形成するにいたつた証拠の構造は先に掲げたとおりである。

本件請求理由の大綱は、掛布団襟当ての付着血痕が新証拠に照らして請求人が犯人であることを認める証拠としての価値を失つたこと、請求人のジヤンパー・ズボンには当初から血液が付着していなかつたことが新証拠により明らかになり、血がついたという供述とジヤンパー・ズボンの処理についての供述が虚偽であり、これが請求人の自白全体の真実性を失わせるにいたるばかりか、自白の内容も不自然、不合理であり、総じて自白が虚偽と認められること等にあり、それは前記確定判決の証拠構造において二審判決が指摘した点の殆んどすべてを網羅し論点としているものである。

したがつて本件請求の理由において問題とされている論点は、新証拠をも加えて総合検討した場合に、有罪の心証を形成した確定判決の証拠構造がなおも維持できるか否かの問題と、その範囲と実質を同じくするものである。

これを布えんすれば、確定判決の証拠構造を新証拠を加えて総合検討した場合に、もし合理的な疑いが生じてその証拠構造の全部又は重要な一部が維持するに耐えないとの判断に到達したとすれば、確定判決の事実認定の正当性に合理的な疑いが生じたものとして刑事訴訟法四三五条六号の再審事由の存在を認めることとなるし、反対の結論に到達したとすれば再審事由が存在しないことに帰するわけであるから、当裁判所が本件請求の理由の当否を判断するに当つては、請求人主張の論点に対応しながら、確定判決の証拠構造を新証拠を加えて総合検討し、新証拠が確定判決の審理中に提出されていたとすれば合理的な疑いが生じて、その証拠構造の全部又は重要な一部が維持するに耐えないものであると評価することができるか否かを検討するという方法によるのが適切である。

この判断に用いられる新証拠は証拠方法又は証拠資料のいずれかにおいて新規性のあるものであればよく、それは再審請求の審理のために新たに取調べられた証拠であつて確定判決の審理において提出された証拠と対比して新規性のある証拠をすべて含むのであり、また本件においては請求理由の実質が請求人の自白の真実性を弾劾するものであることと、自白の内容をなす個々の供述は特段の事情がない限り相互に有機的な関連を有するものとして統一的に把握されるべきものであることの特質に鑑み、自白の内容をなす個々の供述部分の逐一について新証拠がなければその供述部分の真否ないしは合理、不合理の検討をなしえないものではないと解する。

さらに如上の判断に当つては、確定判決が有罪の事実認定の証拠として挙示した各証拠と新証拠を判断の資料に供しうることはもとよりであるが、確定判決の審理において取調べられた、判決挙示以外の証拠及び一次再審請求の審理において提出された証拠もすべて判断の資料に供することができ、これらの証拠を総合して再審理由の有無を判断すべきものである。

但し、一次再審請求の手続において提出された証拠は、右の判断の資料となりうるとしても、もしその証拠が一次再審請求において再審理由として主張された事実の証拠であつて、争点としてすでに実質的な判断を経たものであるときは、刑事訴訟法四四七条二項の規定により、更にその点について新規の証拠がある等の特段の事情がある場合のほかは、その判断に覊束性があり、その証拠を判断の資料に供するについて、右覊束による制限があるものと解すべきである。

そこで、次に項を改め、請求人主張の論点に対応しつつ、確定判決の証拠構造について具体的な検討を加えることとする。

第六請求理由についての具体的検討

一  掛布団襟当ての血痕と三木、古畑鑑定の証拠価値

1  請求人の主張の要旨と新証拠

請求人の主張は、請求人と犯行とを結びつける唯一の物証であり、二審判決において「被告人の自白の大綱は右掛布団襟当ての血痕によつて科学的に殆んど決定的に裏付けられているものといわざるをえない。」とされた掛布団襟当ての血痕及びこれに関する三木、古畑鑑定は後記の新証拠に照らして、有罪認定の証拠としての価値を失つたというのである。

その論点を整理すると次の諸点となる。

(一) 掛布団は弟の使用物

掛布団は事件当時請求人が使用していたものではなく、弟彰が使用していたものである。このことは新証拠である渡辺博司の鑑定書(請求人及びその家族らの血液型に関する鑑定)により明らかとなつた。

(二) 襟当てには押収時に三木鑑定のような多数の血痕はなかつた

掛布団襟当てには押収当時三木鑑定のように表裏合わせて八〇数群もの血痕は付着していなかつたことが、襟当てを復元して写真撮影した石原俊の鑑定書二通、平塚静夫の三〇・一二・二八鑑定書、証人石原俊、同平塚静夫四六・六・二五及び五一・五・二四各証言等のいずれも新証拠により明らかとなつた。

(三) 三木鑑定書の虚偽性

掛布団襟当ての血痕に関する三木鑑定書が作成されるまでの経過は疑惑に包まれている。

すなわち、新証拠である古川警察署長から宮城県警察本部刑事部鑑識課長宛の三〇・一二・二二「鑑定嘱託について」と題する書面、平塚静夫の三一・一・五「鑑定結果の回答について」と題する伺案、同三〇・一二・二八鑑定書、証人平塚静夫の五一・五・二四、同三木敏行の四〇・一二・二各証言によると、本件掛布団襟当ての血痕については三木鑑定が嘱託されていたころ、全く同一の鑑定事項について平塚鑑定も嘱託されていたのであり、鑑定対象物件の掛布団は三木・平塚・三木と順次移動したことになり、さらに平塚鑑定の際にはすでに三木鑑定により血痕の新旧検査のための切取りがなされていた筈であるのに、右各証言ではこのような掛布団の移動を否定しており、また平塚鑑定の際にはまだ切取りが認められなかつたとしている。このように本件掛布団は意味不明の動きをしているうえ、三木鑑定書の記載とも符合しない。結局、三木鑑定書記載の鑑定着手時期、鑑定期間、ことに血痕の新旧検査の日時は虚偽というべきであり、ひいては襟当ての血痕の存在、同鑑定の正確性、信頼性にも重大な影響を及ぼし、疑問を持たざるをえない。

(四) 血痕付着状況の不自然性

襟当ての血痕のつき方が不自然であり、襟当てに血痕が付着する以上は掛布団本体、敷布、枕、枕カバーにも血痕が付着する筈である。

(五) 三木、古畑鑑定の無価値性

三木、古畑各鑑定が証拠として無価値であることが、新証拠である木村康の五三・九・二七鑑定書、須山弘文の鑑定書、証人木村康の五三・一二・一八、同須山弘文の各証言等の証拠により明らかとなつた。

2  考察

次に右の各点について順次考察を進める。

(一) 請求人主張の(一)点について

二審判決が、本件掛布団の使用関係につき、請求人の祖母斎藤きさの三一・二・四検面調書等の証拠により、請求人が以前からこれを使用し、松山事件があつた朝もこれを着ており、その後上京するまで使用を続け、上京後は弟彰が掛布団が押収されるまで使用していたという事実を認定したことは先に確定判決の証拠構造のところで述べたとおりである。

本件掛布団の襟当ての斑痕について血痕鑑定をした古畑鑑定書(記録第七分冊編綴、以下編綴記録分冊数は、例えば「(7冊)」と略記する。)と押収にかかる襟当て(昭和五一年押第一四号の一)によると掛布団襟当ての特に汚れた部分三箇所について血液型の凝集素吸収試験をした結果いずれも抗B及び抗O物質のみを強く吸収したこと、その他の部分についても幾つか同様の試験をしたが、これは抗B、抗O物質のみを強く吸収したものもあり、その吸収がなかつたものもあること、布地のきれいな部分については全くその吸収がなかつたこと、右の特に汚れた部分三箇所は本件襟当ての掛布団表から裏への折り返しの部分であつて、現物を一見して明らかなように、その汚れは長期間の使用にともない人体の体液等が付着したことによる汚れであることがそれぞれ認められるので、右鑑定結果からすれば、右掛布団を、B型の血液型物質を体液中に分泌する者すなわちB型の分泌型血液者が使用したとみる可能性が高い。

ところで当裁判所における鑑定人渡辺博司の鑑定(28冊)によると、請求人はB型の非分泌型、請求人の弟彰はB型の分泌型の血液型であると判定されている。

請求人と弟彰の血液型についてはすでに確定判決の審理において証人三木敏行の三二・四・三〇証言及び古畑鑑定(いずれも7冊)により右と同様の判定がなされていたが、これらの血液型検査においては血液のみの検査により分泌型、非分泌型の推定をしたもので、血液以外の体液中に型物質を分泌しているか否かは必ずしも断定できないものであつたが、右渡辺鑑定においては血液の外その他の体液をも資料として検査したものであり新規性のある証拠である。

請求人と弟彰の血液型は右渡辺鑑定の検査結果により前者はB型非分泌型、後者はB型分泌型と確定してよい。

右掛布団がB型分泌型血液の者によつて使用された可能性が高いとみられることと、請求人がB型非分泌型、弟彰がB型分泌型の血液型であることとを併せると、右襟当てつき掛布団は弟彰が専ら使用していたものではないかと考えることも決して不合理ではない。

しかし、証人木村康五三・一二・一八、同須山弘文(各28冊)及び同三木敏行五四・一・二〇(28冊)の各証言によると、分泌型、非分泌型の区別も截然と区別されているとは言い難く、その中間形態もありうること、非分泌型に分類されるものでも個体差があつてすべてが型物質を全く分泌しないものではなく、僅かながらも長期間にわたり分泌した型物質が付着蓄積するときは型物質の吸収反応が生じる可能性があることが認められる。

そして、請求人は事件後の昭和三〇年一〇月二七日上京したこと、右掛布団は同年一二月八日押収されたことが司法警察員の三〇・一二・八捜索差押調書(3冊)、斎藤美代子の三〇・一二・一六検面調書(8冊)及び請求人の一審二四回公判廷供述(7冊)によつて認められるから、右掛布団がもし、二審判決の認定のように、請求人が上京するまでこれを使用し、その後押収されるまでの間弟彰が使用していたとすれば、一つには弟が約四〇日間右掛布団を使用したことになつて同人の体液が掛布団の襟当てに付着した可能性があり、二つには本件の襟当てが一見して明白なように甚だしい汚れ具合であつて、掛布団の表から裏へかけての襟当ての折返し部分(掛布団の上縁に当る。)を中心としてその付近がかなり茶褐色に変色しており、洗濯をしたことを認める資料もない本件では相当の長期間にわたつて洗濯しないで使用を続けたものと思われるから、非分泌型の請求人の体液が濃く付着蓄積したとみることも十分に可能であり、弟の体液中の型物質及び請求人の体液中に僅かに分泌された型物質が蓄積したものの、いずれか又は双方の競合により反応が現われたとみることが可能である。

したがつて、襟当ての型物質反応や血液型に関する以上の各証拠は、新証拠である渡辺鑑定書をも含めて、本件掛布団の使用関係について二審判決のような認定をすることの妨げにはならない。

しかして、本件掛布団の使用関係は、二審判決が認定の根拠とした前記各証拠に十分の信用性がみられ、これらの証拠により同様の事実を認めることができるのであり、弁護人らの意見書第五章第二・四に掲記のその他の事情や証拠を加えて検討しても右の認定に疑いを容れるものとはいえない。

(二) 同(二)点について

請求人は、本件掛布団の襟当てには押収の当時三木鑑定にいうような表裏合せて八〇数群の血痕は付着していず、同鑑定において認められた多数の血痕は押収後捜査機関によつて捏造されたものである旨を一次再審請求においても主張した。

右主張の根拠の一つは、本件掛布団が押収された際に撮影された写真である司法警察員の三〇・一二・八捜索差押調書添付の襟当ての写真には「血痕」と矢印で指示されたものが一点しか写つていず、もし、三木鑑定にいうように多数の血痕群があれば当然多数の血痕が写真に現われていい筈であるというのである。

(1) 石原鑑定書等の新規性とその内容

右主張の証拠として本件請求のために新たに鑑定をした石原俊の鑑定書二通(22・23冊)及び証人石原俊(26冊)、同木村康五一・一二・二(26冊)の取調べがなされた。

これらの証拠によれば、木村康が三木鑑定書記載の血痕の状況に関する詳細な記述をもととし、現存の襟当ての実物に近い生地の布を用い、血痕の位置、形状、大きさ、色調を絵具及び血液を用いて極力忠実に再現するとともに、現存の襟当てが汚れているところから、再現したものの一部について幾分かの汚れを施して襟当てを復元し、さらに、一次再審の抗告審における証人菅原利雄の四〇・九・二三及び四〇・一一・二五証言(18冊)に準拠し、使用カメラ及びフイルムの種類、絞り、露出時間、撮影距離、光源等の撮影条件を本件掛布団押収時の撮影とほぼ同一条件とし、写真工学の専門家である石原俊により前記復元襟当ての写真撮影をしたところ、多数の斑痕が写つたことが認められる。

右石原鑑定はその鑑定の方法及び内容に照らし新規性のある証拠であることに疑いはなく、この鑑定結果は前記捜索差押調書添付の写真とは異なつた写り方になつていることは明らかである。

しかし、三木鑑定書の記述を頼りに襟当ての斑痕を可能な限り忠実に復元したとしても、その記述自体が現物の状況を余すところなく正確に表現しえているか、また復元作業が記述と同じ状態か又は少くとも実用に供しうる程度に、近似的な状態になされているかは甚だ疑問である。これは、事物の実際を言語で正確に表現し、逆に言語による表現から実際を正確に復元することが経験上いかに困難であるかを考えれば容易に理解できよう。

因みに、前記木村証言によれば、襟当ての復元作業を依頼された際、斑痕の位置や大・小はともかく、色調については保証できないことを告げて依頼に応じたことが認められるのであり、正確な復元作業の困難さを物語つている。

したがつて、石原鑑定において復元襟当ての写真を撮影した結果多数の斑痕が写つたとしても、これを根拠として、本件襟当ての写真撮影においても同様に多数の斑痕が写らなければならないとはいえないのであり、右石原鑑定及び前記石原・木村各証言をもつてしては本件襟当てに押収当時多数の斑痕が付着していたことを否定し、あるいはこれに合理的な疑いを容れる根拠とすることはできない。

(2) 押収時及び三木鑑定時の写真撮影

三木鑑定では本件襟当ての表裏合わせて八五群の斑痕が認められたとされ、その説明のため襟当てを区分して部分的に撮影し引き伸ばした写真二四枚と外に斑痕の位置関係を示した付図が鑑定書に添付されている。証人三木敏行の四〇・一二・二証言(18冊)によれば、三木鑑定人は襟当ての全体像の写真を三五ミリカメラで撮影し、引き伸ばしたが斑痕が微小で全然写真に現われなかつたため、部分写真とし、付図をつけることにしたことが認められる。

掛布団押収時に撮影したカメラは六・六サイズであつて三木鑑定人使用の右カメラとは機種、性能とも同一とはいえない(証人菅原利雄の四〇・九・二三証言(18冊))が、右三木鑑定の際の写真撮影の状況を参照すると本件掛布団押収の際に襟当てを広範囲に入れて撮影した写真に微小な斑痕の一部のみが写つて、他はほとんど現われなかつたとしても不思議ではない。

(3) 平塚三〇・一二・二八鑑定書について

請求人は、検察官提出の、古川警察署長から宮城県警察本部刑事部鑑識課長あての三〇・一二・二二鑑定嘱託書、平塚静夫の三一・一・五「鑑定結果の回答について」と題する伺案、同案添付の平塚静夫の三〇・一二・二八鑑定書(いずれも25冊、証拠方法と内容からして新規性のある証拠である。)を根拠として、平塚静夫が昭和三〇年一二月二二日・二三日本件襟当てつき掛布団を検査したところ血痕の付着を認めなかつたと主張している。

右平塚鑑定書については後述するとおり解明不能と思われる点があるけれども、同鑑定の対象となつた資料が襟当てを除く掛布団本体に限られたものであることは鑑定書の記載自体及び証人平塚静夫の四六・六・二五(23冊)及び五一・五・二四(25冊)証言により明らかである。

もし、右平塚鑑定が襟当てをも鑑定の対象としたのであれば、三木鑑定にいうような多数の斑痕についてはともかく、押収時の写真に照らしても一・二の斑痕に関する血痕反応の有無ないしは斑痕に関する何らかの記述があるべきものと思われ、全くその記述がないことからも掛布団本体のみについて鑑定をしたものと認められる。

したがつて、右各証拠によつても押収時に多数の斑痕が存在した事実に疑いを容れることにはならない。

(4) 請求人主張のその他の根拠

請求人は多数の血痕が付着していなかつたとするその他の根拠として、(イ)掛布団が押収された際の掛布団の写真撮影のネガフイルムが提出されず、これまで県警察本部の担当係においてその探索をしたこともないこと、(ロ)捜査官が本件掛布団を請求人やその家族に示して確認をとるという手続をせず、また請求人の家族から別の布団の任意提出をさせたこと、(ハ)前述の平塚鑑定人が本件掛布団を見た際、見ただけで血痕がどこについているか分らない状況であつたと証言していること、を掲げている。

右(イ)ないし(ハ)の事実は証人石垣秀男の証言(25冊)、請求人の三一・二・六検面調書(5冊)、一審二四回公判廷供述(7冊)、斎藤美代子の三〇・一二・一七任意提出書(21冊)及び証人平塚静夫の四六・六・二五証言(23冊)によつて認めることができる。

ところで、(ロ)の点については、確かに、血痕が付着していたという襟当てつき掛布団は請求人と犯行とを結びつける重要な物証であるから捜査官としてはたとえ鑑定中であつても犯行を自白していた請求人に現物を示して供述を得ておくことが捜査上欠かせないことと思われるのに、犯行否認後に検察官において掛布団の写真を請求人に示したに止まることが認められ、このような捜査上の処理が疑点を生む一原因となつたことは否定できない。

しかし、右(イ)・(ロ)の事情があるからといつて、本件掛布団襟当てに押収時多数の斑痕がなかつたとするのは単なる推測の域を出ないものであり、合理的な疑いを抱く根拠とはならないし、また(ハ)の点も前記平塚証言(四六・六・二五)及び同人の五一・五・二四証言(25冊)によれば、同人は掛布団の血痕の検査を依頼されたが、襟当てには一〇点以下と思われる斑痕があると思われたものの、斑痕が微小で自分の手に負えないと思い大学に回すことにしたというのであり、それによれば襟当てに当時すでに斑痕が複数存在したことは確かであり、その際見た感じについての「あるかないか分らない云々」という前記表現は、斑痕が一見して明瞭とは言えないほどの微小なものであつたことの表現であつて、斑痕がほとんどないことの表現ではないことが証言の全趣旨に照らして明らかであり、またその数量評価についても同人が大学の鑑定に回すことにしたため自己が鑑定する場合のような厳密な評価をしなかつたと考えられることと、証言時までの長期間の経過による記憶のうすれが考えられること等から必ずしも正確な表現とはいえないと思われ、同様合理的な疑いを抱く根拠とはならない。

(5) 血痕の工作を否定するその他の根拠

証人佐藤健三の三二・九・七(7冊)及び四〇・一一・二五(18冊)、証人菅原利雄の四〇・九・二三及び四〇・一一・二五(18冊)各証言によると、本件掛布団の襟当てには押収時に撮影した写真に指示された斑痕以外にも複数の斑痕があつたこと、同写真に矢印で指示したのは判然と現われたもののみについてしたものであることを認めることができる。

しかして、前記三木鑑定書の冒頭の記載、証人三木敏行の三二・四・三〇(7冊)及び四〇・一二・二(18冊)、前記菅原利雄の各証言、司法警察員の三〇・一二・九鑑定処分許可状請求書(鑑定人平塚、同富谷の記載が鑑定人三木敏行と訂正されているもの)(21冊)、古川警察署長から東北大学法医学教室三木敏行あて三〇・一二・九鑑定嘱託書(21冊)、並びに、裁判不提出記録中の三木敏行から検察官あて、三〇・一二・二〇(14冊)、三〇・一二・二六(9冊)各鑑定結果の回答に関する電話箋によれば、本件掛布団はそれに縫いつけられた襟当てとともに押収の日の翌日である昭和三〇年一二月九日、古川警察署長からの鑑定嘱託にもとづき、宮城県警察本部刑事部鑑識課の菅原警部補により古川警察署から東北大学法医学教室の三木鑑定人のもとに持参交付され、同鑑定人が直ちに鑑定作業に着手し、同年一二月二〇日結論をうるまでにあと四・五日を要する旨を、同月二六日には鑑定結果の概要をそれぞれ服部検察官あてに報告したこと、鑑定に着手した当時までに三木鑑定書記載のような多数の斑痕があつたことがそれぞれ認められるのであり、掛布団が押収された後三木鑑定人に届けられるまでの一日間に斑痕の工作がなされたことの疑いをもつべき根拠となる資料はない。

したがつて、押収時にすでに三木鑑定にいう多数の斑痕があつたものと認められ、斑痕の工作の疑いはない。

(三) 同(三)点について

前顕古川警察署長から宮城県警察本部刑事部鑑識課長あての三〇・一二・二二鑑定嘱託書、平塚静夫の三一・一・五「鑑定結果の回答について」と題する伺案、同案添付の平塚静夫の三〇・一二・二八鑑定書によれば、本件掛布団と襟当ては、三木鑑定人において血痕の有無及び血液型等の鑑定が進行中であつた昭和三〇年一二月二二日右鑑定事項と同一の鑑定事項について平塚鑑定人に鑑定依頼がなされ、これにともない鑑定資料物件として同人に交付され、同人が同日から翌二三日にかけて鑑定を行い、同月二八日付鑑定書を作成したことが記載されている。

三木鑑定人において鑑定が進行中であつたのに、右のような重複した鑑定を併存させる必要が奈辺にあつたか理解に苦しむところであり、また右伺案には平塚鑑定書を東北大学法医学教室の三木助教授の依頼により作成するものである旨、朱書きされているところ、証人三木敏行の五四・一・二〇証言(28冊)ではそのような依頼をしたことはないというのであり、他方証人平塚静夫の前記各証言(23・25冊)によれば同人は本件掛布団について血痕検査をしたが襟当てについては前述の理由で大学の鑑定に回すことにしたものの、前記伺案に朱書きされた内容の事実については全く記憶がないというのである。

検察官は、この点に関し、本件掛布団が、押収の日である昭和三〇年一二月八日の午後宮城県警察本部刑事部鑑識課に持ち込まれ、その際平塚鑑定人において鑑定処分許可状をえずに試薬を用いて掛布団本体の検査を行つたが、その翌日本件掛布団が三木鑑定人の鑑定に回されたので、その後においては平塚鑑定人が本件掛布団の鑑定を行つたことはなく、ただ平塚鑑定人においてすでに鑑定処分をした関係上、後日になつて鑑定処分許可状をえ、これによつて鑑定をしたような記載をしたものと思われる、という意見を述べている。

前記平塚証言は検察官の右意見の一部に沿い、また前顕司法警察員の三〇・一二・九鑑定処分許可状請求書(21冊)には鑑定人の記載が平塚、富谷から三木敏行に訂正されていて鑑定人の変更を窺わせる事跡もあり、証人鈴木隆の五一・六・七証言(25冊)によれば本件掛布団が押収された後、県警本部鑑識課員によりルーペで検査され、その際平塚静夫が主任として掛布団の検査をしたことが認められるので、検察官の意見にいうような事実は必ずしもありえないことではない。

しかし、右鈴木証言によれば、右鑑識課における検査はルーペによつてなされ、刑事部長から、大学に鑑定を依嘱するよう最初から指示があつたというのであり、平塚がそこで試薬を用いて検査を行なつたかは疑問がある。

結局検察官の意見はこれを断定するにたりる資料に欠け、右平塚鑑定のいきさつは現在では解明不能というほかはない。

しかし、平塚鑑定には以上のような疑問点はあるものの、それは同鑑定の経過が鑑定書の記載と一部符合しない疑いがあることを示すに止まり、三木鑑定書の証拠価値に影響を及ぼすものではないと考える。

請求人は、前記三木鑑定書及び三木証言(28冊)によれば、昭和三〇年一二月二二日ころには本件襟当ての血痕の新旧鑑別のため斑痕の一部がすでに切り取られたことになつているのに、前記平塚証言(25冊)によれば同人がその当時切取り部分を認めなかつた事実が認められるから三木鑑定の内容は虚偽であるというのであるが、平塚鑑定の経過については解明不能の疑問点があり、同鑑定書中の日付の記載が必ずしも基準となりえないと考えられるので、これも三木鑑定書の証拠価値を害しない。

(四) 同(四)点について

この点に関する請求人の主張(その詳細は弁護人らの意見書第五章・第二・二及び三記載のとおりである。)はすでに同旨のものが一次再審請求において主張され、その審理において争点として実質的な判断を経ていることは一次再審請求についての各決定書に徴して明らかである。

本件請求においては、請求人からこの点の新証拠として特に提出、援用されたものはなく、当裁判所も一次再審請求に対する一審決定と同様に、襟当ての血痕付着状況には幾分かの不自然さを免れないものとして疑問を感じるものの、請求人主張の理由によつては、掛布団襟当ての血痕が、請求人の頭髪についた返り血が二次的・三次的に付着して生じたとするには、その付着状況が全く不自然でありありえない、とまではいえないものと解する。

しかし、ジヤンパー・ズボンの血痕不発見との関係で、これに疑問を容れざるをえないこととなることは後に検討するとおりである。

(五) 同(五)点について

(1) 請求人の主張の要旨

この点の主張は、前述のとおり、襟当ての血痕に関する三木鑑定書及び古畑鑑定書はその鑑定方法の妥当性について鑑定した木村康の五三・九・二七鑑定書、須山弘文の鑑定書、証人木村康の五三・一二・一八及び同須山弘文の各証言(いずれも新証拠)に照らして有罪認定の証拠としての価値を失つたというのである。

(2) 三木、古畑鑑定の方法と結論

三木鑑定及び古畑鑑定が採用した鑑定方法とその結論は、これらの各鑑定書(7冊)、証人三木敏行の三二・四・三〇(7冊)、四〇・一二・二(18冊)及び証人古畑種基(18冊)の各証言を総合すると次のとおりである。

(イ) 三木鑑定

先ず肉眼的検査により襟当ての表側に三五群、裏側に五〇群の小さな赤褐色等の濃淡のある斑痕があることを認めて、その箇所を各特定し、うち表裏各二群は血痕らしくない色調であり、グアヤツク検査法及び化学発光検査法によつても共に陰性であることが確かめられた。次に残余の斑痕群はすべて血痕様の色調を呈しているので、そのうち襟当ての表側八群、裏側五群(いずれもその群を特定)について群ごとに血痕予備試験(グアヤツク検査法)によりすべて陽性であることが認められたので、念のため右陽性を示した斑痕群の一部及び右検査を経ていない他の斑痕群の一部表裏合わせて七群について同様群ごとに化学発光検査法を行つたところすべて陽性であることが確められた。対照試験として斑痕群に近いところを対象に同様の試験をしたところ、すべて陰性であることが確められた。

次に血痕様色調の濃い斑痕のうち表側四群、裏側八群(いずれもその群を特定。なお表側の一群(ヌ)と記載があるのは(ヌ′)の誤記と認める(証人三木敏行の五四・一・二〇証言(28冊)。)について群ごとにヘモグロモーゲン検査法により血痕本試験を行い、すべて陽性であることを認めたので、襟当ての斑痕は血痕らしくない色調の前記四群を除いてすべて血痕と認めた。

さらに、表面の斑痕群のうち八群(いずれもその群を特定)について、これを切り取り、血量が少いので、これらの浸出液を混合し、また裏面の斑痕群のうち九群(いずれもその群を特定)を切り取り、これも血量が少いのでその浸出液を混合し、各浸出液ごとに抗人グロビン沈降素による検査(種属鑑別)を行い、その結果が陽性であること、他方対照試験として斑痕群に近いところからえた浸出液について同様の試験により陰性であることをそれぞれ確かめ、人血以外の血痕が少しは混在する可能性は否定できないものの、通常起る事象の範囲内で考えれば、襟当ての血痕はすべて人血液に由来すると考えてよいと推測した。

血液型検査では襟当て血痕のうち大きくかつ色調の濃いものを選び表側一四群、裏側九群(いずれもその群を特定)についてこれを切り取り、これを細切してまぜ、これを二分して検査資料とし、型特異的凝集素の吸収試験を行い、抗A凝集素は強く吸収され、抗B凝集素は殆んど吸収されないこと、斑痕群の近辺を対象に同様の対照試験をし、いずれの凝集素も吸収されないことを認めた。

他方、血痕四群(いずれもその群を特定)について型特異的凝集素の検出試験をした結果、抗A、抗B凝集素のいずれをも証明しえず、一見これらの血痕がAB型であるような成績を示したが、凝集素の検出は凝集原の検査成績より信頼性が少いとされているので、吸収試験の成績の反証とはなし難い。

血液型検査では多くの血痕を集めて全体として検査した結果A型質が証明されたのであるから、血液が二名以上に由来するのであれば、個々の斑痕には、A型質を欠くものがあつた可能性はあるとしなければならない。

以上の経過から、鑑定の結論は、「襟当てには人血が付着していると考えられる。この血痕が一名の血液に由来するのであれば、A型であり、二名以上の人の血液に由来するのであれば、それらの人は血液型がすべてA型であるか、あるいはA型の人とO型の人が混在したと考えられる。」というのである。

(ロ) 古畑鑑定

先ず、肉眼的検査により襟当てに径一ないし数ミリメートルの多数の切り取られた部分の周囲に非常にせまい範囲およびその近くに赤褐色の血液らしいものが散在するのを認め、次に、その疑わしい部分の一部を切り取つたものに、また量の非常に少いところは布地に直接、試薬を落すという方法により、それぞれ個別的にベンチジン法による血痕の予備試験を行い、いずれも陽性反応を認めた。

血痕本試験は予備試験が陽性を示した部分の一部を切り取り高山氏法によりヘモグロモーゲンの結晶を認めた。

人血か否かの試験では、以上の予備試験及び本試験で血液の証明があつたものの一部について浸出液を作り、抗ヒト血清沈降素、抗ヒト血色素沈降素を作用させて、陽性反応を認めた。

血痕の血液型検査では、これらの血液が人血であることが明らかになつたので、その部分を細かく切り取り、量が極めて少いので一緒にまぜ型的凝集素の吸収試験を行つた結果、対照試験の布地のきれいな部分についての試験に比し、抗A、抗B、抗O凝集素を強く吸収した。

右試験結果からは、血液型は一見AB型と判定されるが、血痕のついていない部分でも、布の特に汚れているところ、うすい斑点のあるところ、少し汚れているところ、特に汚れていないところがきれいな部分にくらべ、いずれも抗B、抗O凝集素だけを強く吸収しているので血痕によるこれら凝集素の吸収のうち抗B及び一部の抗O凝集素の吸収は血痕そのものによる吸収でない可能性が大きく、その血液型はむしろA型と判定される。

鑑定の結論は、「布団の主として襟当ての部分に限られて血痕がついており、それは人血であり、一名の人に由来するものとすると、その血液型はA型であるが、二名以上の人に由来するものであれば、さらにA型、あるいはO型などの血液がまじつていることも考えられる。」というのである。

(3) 須山鑑定書及び木村五三・九・一二鑑定書の新規性

請求人が新証拠として援用する須山弘文の鑑定書及び木村康の五三・九・二七鑑定書は、本件請求の審理において、前記三木鑑定及び古畑鑑定に対し、その鑑定方法及び鑑定結果の妥当性について考察したものである。

右三木鑑定及び古畑鑑定において、複数の斑痕を集めて血液型等の検査をすることの妥当性については、確定判決の審理においても一審裁判所においてすでに問題として意識され、鑑定をした三木敏行が証人としてその点の尋問を受けていること(同証人三二・四・三〇(7冊))、一次再審請求の審理においても三木敏行(四〇・一二・二)及び古畑種基(四〇・一二・三)、(いずれも18冊)が証人として同様の点につきそれぞれ尋問をうけていることがこれら証人の尋問調書により明らかである。

しかし、これらの証言は、鑑定者が証人として自己の鑑定内容について説明を加えたことの性格が強いのに対し、右須山鑑定及び木村鑑定は鑑定方法及び鑑定結果の妥当性について専門的立場から批判検討したものであり、新規性のある証拠というべきである。

(4) 須山鑑定書の鑑定要旨

(イ) 三木鑑定について

人血か否かの証明法である抗ヒトグロビン血清による検査法で襟当ての表側八斑痕、裏側九斑痕を集めて検査し、八斑痕、九斑痕ともそれぞれに人血証明があつた場合、その中のどの斑痕が人血かは不明であるし、一部又は全部が人血であるかも知れない。斑痕を集めて検査するのであれば、これらの斑痕が同じ機会に生じたものであるという前提が必要である。

血液型検査では襟当ての表面、裏面合わせて二三斑痕を集めて検査しており、そのうち人血検査をへたものは表裏各一斑痕であり、他の斑痕は人血証明をへていない。二三斑痕を集めて検査した成績がA型と判定される結果であり、この中にA型質が存在していたことは事実であるがそれが二三斑痕のすべてに存在していたかどうかは明らかでない。したがつて、これらの斑痕が同じ機会に生じて人血であるという前提があればA型の人血が証明されたといえる。

(ロ) 古畑鑑定について

人血か否かの証明法(抗ヒト血色素沈降素、抗ヒト血清沈降素を用いる。)でそれぞれ陽性に出た斑痕を集めて血液型検査を行なつたことになつている。集められた斑痕の部位、大きさ等は不明であるが、この検査による血液型は、集められたいくつかの斑痕に付着した人血の血液型を示している。

血痕の血液型は一応AB型と判定される成績であるが、対照部分と対比し、血痕以外のものによる吸収が考えられるので、血痕の血液型はむしろA型と判定されるという結論は当を失したものではない。

(5) 木村鑑定書の鑑定要旨

(イ) 三木鑑定について

襟当ての表、裏八五群の斑痕のうち十九群について血痕予備試験を行つたにすぎないから、試験をへなかつた斑痕の中には血液でない斑痕が混在している可能性がある。

人血と判定された斑痕は、ヘモグロモーゲン検査と人血検査をへた表側の二個及びグアヤツク検査と人血検査をへた裏側の一個の合計三個しかなく、しかも人血と判定されたこれらの斑痕については血液型検査をへていないので、三木鑑定の検査資料には人血が付着していたが血液型が分らないことになる。

斑痕が微小で個別的な検査ができないときは、少くとも血痕予備試験を各斑痕について行い、陽性を呈した場合にこれを集めて、血痕本試験、人血検査、血液型検査と進める方法がとられるが、この場合には斑痕付着の機序の検討が大切であり、これらの斑痕が同一の機序で付着したと考えられることが必要である。

三木鑑定における検査方法では血痕検査の全過程をへた斑痕はなく、その結果からは三木鑑定の結論は導き出せない。

(ロ) 古畑鑑定について

血痕予備試験、血痕本試験、種属鑑別を斑痕ごとに行い人血であることを確認してから血液型検査を行つており、その限りでは検査方法は妥当である。しかし、検査した斑痕の部位が明らかでないし、血液型の検査では多数の斑痕を集めて行つているから検査したすべての斑痕がA型なのか、一部にA型がまじつているのか、あるいはA型の外にO、B、AB型がまじつているのかが問題となる。

血液型検査の成績は一見してAB型の成績であるからAB型と判定すべきであり、少くとも斑痕中にAB型あるいはB型の血痕が混在していたと考えても矛盾しない。

多数の斑痕を集めて検査した場合には対照検査との比較が困難であり、古畑鑑定のようにA型と判定することは妥当ではない。

(6) 須山、木村鑑定の検討

須山(26冊)、木村(27冊)両鑑定書、証人須山弘文及び同木村康の五三・一二・一八各証言(各28冊)を併せて検討すると、右両鑑定で指摘している問題点は(イ)両鑑定がともに指摘している問題点として、三木・古畑鑑定においては多数の斑痕中の一部のみについて、しかも複数の斑痕を集めて人血試験や血液型検査を行つているので、個々の斑痕について三木鑑定及び古畑鑑定の結論を導くにはこれらの斑痕が同一の機会ないしは同一の機序で生じたことの前提がなければならないこと、(ロ)さらに木村鑑定の指摘している問題点として、三木鑑定においては血痕検査方法として通常行われている全過程の検査をへた斑痕は一つもないので、複数の斑痕を集めて検査したこととも合せて、結局三木鑑定では斑痕のほとんどが人血か否か判らなく、また斑痕全部の血液型が不明であること、(ハ)木村鑑定の指摘しているもう一つの問題点として、古畑鑑定の成績からは、AB型の血液型と判定するのが妥当であることの主として三点である。

そこで、以上の各点について考察するに、指摘のような鑑定方法によつては検査をへなかつた個々の斑痕のうちには検査成績と異なるものもありうること、複数の斑痕を集めて検査した成績が、集められた斑痕の全部に由来するものとは必ずしもいえないことは理論上当然であるから、厳密な解釈により三木鑑定及び古畑鑑定の結論を承認するには斑痕の全部が同一の機会ないしは同一の機序により生じたという前提がなければならないことは理論として肯定できる。

したがつて、右の前提条件の充足が認められない場合には、これらの鑑定の結論はそのままでは本件に妥当せず、次に説明するとおりこれらの鑑定の証拠価値は皆無に帰してしまうものではないにしても、その前提条件の充足が認められ鑑定の結論がそのまま妥当する場合に比較して証拠価値が著しく減弱したものとならざるをえないと解される。

すなわち、先ず、右の前提条件の充足は、これらの鑑定自体において解明されていることは必ずしも必要でなく、他の証拠、ことに自白がある場合にはその自白をも含めてすべての資料により解明されれば足りると解されるのであるが、本件においてはこれらの鑑定自体において右の前提条件の充足が解明されていないばかりか、請求人の自白を含めすべての証拠を総合してもその解明は完全にはなされていないものと認められる。

次に、右の前提条件の充足が認められない場合に、これらの鑑定がどの程度の証拠価値を有するかにつついて考察を進める。三木鑑定と古畑鑑定とでは鑑定の方法及び結論を一部異にするので、各鑑定ごとに分けて考察する。

(イ) 三木鑑定について

前記三木鑑定書及び証人三木敏行の五四・一・二〇証言(28冊)によると、三木鑑定においては、襟当ての表裏合せて八五群のうち、血痕らしい色調の斑痕一三群をほとんど無作為に抽出してグアヤツク検査法により血痕予備試験をした結果例外なく陽性であつたというのであるから、その色調と右検査成績及び、検体が掛布団の襟当てであつてこれに血痕様斑痕が付着することは日常茶飯事として生起するものではないこと、血痕様斑痕が多数存在し、色調も似ていること等の事情を勘案すれば、予備試験をへない他の同様色調の斑痕についても同様の検査成績となるであろうことをかなりの程度高く期待できるものと推測してよいと考えられ、次に斑痕のうち表裏合わせて一一群のいずれも血痕様色調の濃い斑痕を選び、ヘモグロモーゲン検査法により血痕本試験を行い、これも例外なく陽性を示したというのであるから、この成績に前記の事情等を勘案し、検査をへていない他の同様色調の斑痕についても同様の検査成績となるであろうことをこれもかなりの程度高く期待できるものと推測してよいと考えられる。

そして、以上の推測をもとにさらに推論してゆくと、掛布団襟当てに多数存在する血痕様色調の斑痕が均質のものであつて、そのうちの一部複数の斑痕を集めて行つた人血試験や血液型検査の成績が検査対象とされた複数の斑痕から均等に由来している蓋然性があると考えられ、そうだとすると、これらの検査をへていない他の血痕様色調の斑痕もほぼ同質のものであり、同様の検査成績がえられるであろうことをかなりの程度高く期待できるものと推測してよいと考えられる。

したがつて、三木鑑定においては、多数の斑痕のうち、一部の斑痕のみについて検査が行われたにすぎず、また血痕検査に必要な全部の過程をへた斑痕は一群もないけれども、以上の推測を総合すれば、多数存在する血痕様斑痕の少くとも一部斑痕にA型又はその外にO型の人血が付着していることの蓋然性が残されているものとみることができ、この限度においては三木鑑定の結論を承認することができる。

(ロ) 古畑鑑定について

古畑鑑定の前記鑑定方法と検査成績によれば、斑痕の部位が特定されていないものの、検査対象とされた複数の斑痕にすべて人血が付着していることが認められ、さらにこの鑑定方法と検査成績に前記須山、木村両鑑定書及び証人須山弘文、同木村康の五三・一二・一八各証言をも総合して考察すれば、右人血が付着していると認められる複数の斑痕の一部に、AB型の人血が付着しているとみる余地もあるが、A型又はその外にO型の人血が付着しているとみるべき蓋然性もなお残されているものと考えられ、古畑鑑定の結論を右の限度で承認することができる。

以上のように、三木鑑定及び古畑鑑定は前述の前提条件の充足が認められない場合においても、掛布団の襟当てに存在する多数の血痕様色調の斑痕のうち少くとも一部にA型又はその外にO型の人血が血痕として付着していることの蓋然性を認める資料となりえ、その限度ではなお証拠価値を有するものと考えられるところ、この血液型は被害者らの血液型と同型であり、掛布団襟当てに存在する多数の斑痕の一部にでもこれらの型の人血が付着している事情について、他に合理的に説明できる資料のない本件においては、右人血付着の蓋然性は犯行の裏付けとして請求人の自白の有力な補強証拠となりうるものである。

但し、このように補強証拠となるとしても前述の前提条件の充足が完全に解明され、三木、古畑両鑑定の結論がそのまま本件に妥当する場合に比較すれば証拠価値は著しく減弱したものとならざるをえない。

(7) まとめ

以上に考察したとおり、本件掛布団襟当ての血痕を鑑定した三木鑑定及び古畑鑑定の結論は新証拠である須山鑑定及び木村鑑定等の証拠に照らし厳密には襟当てに存在する多数の血痕様斑痕が同一の機会ないしは同一の機序により生じたという前提条件のもとでのみに妥当するものであり、その前提条件の充足が請求人の自白を含め、すべての証拠と合わせて考察しても結局完全には解明されない本件においてはその結論がそのまま妥当するものではないことが明らかとなつた。もつとも、このことは三木鑑定及び古畑鑑定の証拠価値が全く皆無に帰したことを意味するものではなく、掛布団襟当てに存在する多数の斑痕の一部に被害者らの血液と同型のA型又はその外にO型の人血が付着していることの蓋然性を認める資料としてその限度でなお証拠価値を有し、請求人の自白の補強証拠となりうるけれども、微量血痕のため不十分な鑑定結果とならざるをえなかつたことからその証拠価値には多くを期待することができなく、これらの鑑定の結論がそのまま妥当する場合に比較して証拠価値が著しく減弱したものとなつた。

ところで三木鑑定書にはその鑑定経過として鑑定の方法が詳細に記述されており、それによれば鑑定方法に包蔵される前記のような問題点の指摘も鑑定書の中で一部なされているし、また確定判決をした一審裁判所における審理においてもその問題点を意識した証人尋問が行われたことは前述のとおりであるから、確定判決においてはこれらの問題点を一応考慮のうえで心証を形成したものと認められる。

しかしながら、もしその審理手続において前記須山鑑定書及び木村鑑定書並びに須山、木村両証言が提出され、三木、古畑鑑定についての専門的な批判がなされたとすれば、心証形成上影響を及ぼすことは十分考えられ、二審判決の説示するように、三木鑑定及び古畑鑑定の結論を採用し、掛布団襟当てに表裏合わせて八五個の血痕があり、これにA型又はその他にO型の人血が混在しており、被害者らの全部又は一部の者の血液が付着している可能性が極めて高いとの事実を認定して請求人の自白が掛布団襟当てに付着した血痕により科学的に殆んど決定的に裏付けられているものとの心証に到達しえたかは疑問があると言わざるをえない(ジヤンパー・ズボンの血痕不発見により、襟当ての血痕のもつ証拠価値がさらに減弱したものと認められることは後に「ジヤンパー・ズボンの血痕反応」において考察する。)。

二  ジヤンパー・ズボンの血痕反応

1  請求人の主張の要旨と新証拠

請求人の主張は要旨次のとおりである。

請求人の供述によれば、犯行後忠兵衛方からの帰途ズボンに触つたらヌラヌラとし、血がいつぱいついたと感じたことになつているが、後記新証拠によればジヤンパー・ズボンには当初から血液の付着がなかつたことが認められるから、請求人の右供述は虚偽であり、ジヤンパー・ズボンに血液が付着したことを前提とした着衣の洗濯とかその後の着衣の処理等請求人の一連の行動についての供述はすべて虚偽であり、ひいては犯行に関する自白の真実性も失われるというのである。

請求人が右主張の根拠として提出した新証拠のうち主なるものは、宮内義之介の鑑定書(中島敏著「血痕の血液型検査に関する研究」と題する論文添付)、(22冊)、木村康の四四・五・一鑑定書(22冊)、証人木村康の四六・七・九(23冊)、五一・一二・二(26冊)各証言、証人斎藤ヒデの五一・七・二二、同青木正芳の各証言(各25冊)、斎藤美代子(23冊)及び遠藤(旧姓上部)道子(24冊)の弁護人に対する各供述録取書面である。

ところで、ジヤンパー・ズボンの血痕の有無については確定判決についての審理においても、その二審においてベンチジン法による検査の結果、ズボンの一個所から微量の血痕反応が認められた外はジヤンパー・ズボンに血痕反応を認めないとする平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書(8冊)が取り調べられ、二審判決はこの点についてジヤンパー・ズボンが事件後平塚鑑定にいたるまでの間にそれぞれ二回ずつ洗濯されているので、血痕斑が発見されなくても異とするにたりないとしたことは前述のとおりである。

また請求人の右主張は、一次再審請求においても主張され、その証拠としてジヤンパー・ズボンにつきベンチジン直接法により血痕反応の有無を検査し、ズボンの一個所に微量の人血反応があつた外は血痕反応を認めないとする船尾忠孝の血痕検査成績、洗濯後の血痕についてベンチジン直接法及び間接法により血痕反応の有無を実験し、ズボンにヌラヌラと多量の血液が付着した場合、普通の方法で二回洗濯してもベンチジン反応が全く陰性化することはなく、それが陰性であれば当初から血液が付着していなかつたと推論することが法医学の実際上極めて妥当であるとする同人の松山事件報告書及び同証人の証言を提出したが、一次再審の抗告審において、結局これらの証拠は、血液の付着量、乾燥の程度、洗濯の状況、時間の経過等の条件のいかんにより、ベンチジン法による血痕検査成績が陰性化することもありうるという他の証拠があり、これと対比して反論の余地がないほど明白なものとは認められなく、また平塚鑑定も線密な検査であつたかどうかは疑わしいとして、請求人の主張が排斥されたことは前述のとおりである。

検察官は、ジヤンパー・ズボンに血痕が認められないことは請求人の犯行を否定することと結びつくものではないことが、一次再審請求の決定においてすでに判断されているのであるから、本件請求において、同じ方向の証拠をもとに一次再審請求と同一の事実を主張することは同一再審理由を繰り返し主張することになり許されない、と意見を述べている。

しかし、二審判決及び一次再審請求の決定においては、ジヤンパー・ズボンの血液付着の有無が請求人の犯行を肯定し、あるいは否定することと全く関係をもたないとしているものではなく、ベンチジン法による血痕検査においてはそれが陰性であつても条件のいかんによつては必ずしも血液の付着が当初からなかつたことにならないことを理由として、前記各鑑定結果が請求人の犯行を否定することに結びつくものではないと判断しているものであることは判文上極めて明瞭なところである。

そうだとすると、本件請求において一次再審請求と同一の事実を主張しても、もしその根拠となる証拠方法を新たにし、問題のジヤンパー・ズボンに当初から血液の付着がなかつたことを立証するのであれば、同一の理由のむし返しに当らないことは明らかである。

しかして、本件請求において新証拠として提出された前記の各証拠のうち、宮内鑑定書、木村鑑定書及び木村証言はジヤンパー・ズボンについて、従来の鑑定において採用されたベンチジン法等の血痕検査の方法の外、抗人線維素沈降素吸収試験、鏡検及びフイブリンプレート法を併用することにより血痕の有無の検査をするとともに、洗濯後の血痕についてもこれらの方法による対照実験をし、その結果をもとにジヤンパー・ズボンに当初から血液の付着がなかつたものとの推論を導いた鑑定とその補充説明であつて、従来の鑑定とは鑑定の方法を異にする新たな証拠と目すべきであるし、その他の証拠はフイブリンプレート法による血痕検査において血痕反応を陰性化するおそれのある条件として洗濯の際の洗剤の使用、加熱、保管状態の不良等の特別の事情が存在しなかつたことの立証資料であつて、従来の資料にはなく、これらも新たな証拠であることに疑いはない。

したがつて、本件請求において一次再審請求と同一の事実を主張してもその証拠を新たにするものであるから、刑事訴訟法四四七条二項の同一の理由の主張には当らないというべきである。

2  考察

そこで、請求人の右主張の当否について検討を進めるが、ここでは、先ず前提の問題として請求人が事件当夜着用していたというジヤンパー・ズボンと以上の各鑑定の対象物であり当裁判所において押収しているジヤンパー・ズボン(昭和五一年押第一四号の二及び三)、(以下「本件ジヤンパー・ズボン」という。)との同一性の有無を考察し、次にそのジヤンパー・ズボンの血液付着の有無と、これがジヤンパー・ズボンに血液が付着したことの前提で述べた請求人の供述及び掛布団襟当ての血痕の証拠価値に対して及ぼす影響とについて考察する。

(一) ジヤンパー・ズボンの同一性

斎藤常雄の三〇・一二・三任意提出書(21冊)、山本文子の三〇・一二・二任意提出書、司法警察員の三〇・一二・三(酒田信吾作成)及び三〇・一二・二各捜査報告書、同三〇・一二・九鑑定嘱託書控、同三〇・一二・九鑑定処分許可状請求書、佐藤秀元の三〇・一二・九鑑定処分許可状(いずれも裁判不提出記録11冊)、平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書(8冊)、押収にかかるジヤンパー・ズボンを総合すると、本件の鼠色ジヤンパーは昭和三〇年一二月三日請求人の兄常雄から司法警察員に任意提出され、また本件の茶色ズボンは同月二日請求人が上京中滞在していた「文よし」こと山本文子から司法警察員に任意提出され、同年一二月九日宮城県警察本部刑事部鑑識課の平塚静夫に対し、ジヤンパー・ズボンとも他の物件とともに血痕の有無等についての鑑定嘱託がなされたのにともない同人に交付され、同人により鑑定の結果、同月二二日付で前記平塚鑑定書が作成されたという経緯を認めることができる。他方請求人の三〇・一二・六員面調書、三〇・一二・一一検面調書(各5冊)、三〇・一二・二一検面調書(21冊)によれば請求人は事件当夜の服装について、犯行を自白していた当時の昭和三〇年一二月六日及び一一日、司法警察員及び検察官に対して鼠色ジヤンパーと茶色ズボンを着用していたことを供述し、犯行を否認するにいたつた後の同月二一日にも検察官に対して同旨の供述をしている。ところで請求人の自白によれば、請求人がズボンに触れたらヌラヌラとし血がいつぱいついたと感じたというのであるから、これが真実とすれば請求人の事件当夜の着衣には犯罪の痕跡として動かし難いものが残つていた可能性が高く、これは請求人の自白の真実性の裏付けとしても欠かせない極めて貴重な証拠物件であつたと考えられる。そして、前述の鑑定に回されていた本件ジヤンパー・ズボンはその形態、色調、模様からして請求人の供述と符合し、鑑定に回された経緯からしても、請求人が事件当夜着用していたジヤンパー・ズボンである可能性が極めて高いものと、捜査段階においてすでに注目されていたものと思われるので、物件がたとえ鑑定に回つていても、捜査の過程において請求人にその物件を示し、事件当夜の着衣であるか否かを確定しておくべきであつた。それにも拘らず、その処置をした形跡はなく、真相究明の手掛りを一つ逸したことになるばかりか公判審理の過程においても本件ジヤンパー・ズボンは証拠として取り調べられたこともなく、結局事件当夜の請求人の着衣が本件ジヤンパー・ズボンであつたか否かは証拠上確認の手続をへていないというほかはない。

しかし、請求人は前述のように犯行を自白していた際も、また否認するにいたつた後も捜査官に対して事件のあつた日の服装が鼠色ジヤンパーと茶色ズボンであつたことを一貫して供述し一審二三回公判廷(7冊)においても白つぽいズボンと表現した外は同旨の供述をしているのであつて、請求人の事件当夜の服装(小牛田に入質に行つた際の服装)が鼠色ジヤンパーと茶色ズボンであつたことはほとんど誤りがないと考えられ、他方本件ジヤンパー・ズボンはその形状、色調、模様が請求人のいう右ジヤンパー・ズボンと符合し、斎藤美代子の三〇・一二・一六第一回検面調書(8冊)によれば、請求人所持の当時の衣類のなかに本件ジヤンパー・ズボンの外には請求人の言う形状、色調、模様のものは存在しないことが窺われること及び本件ジヤンパー・ズボンが任意提出され、押収された経緯をも併せて考察すれば、本件ジヤンパー・ズボンは請求人の言う鼠色ジヤンパー・茶色ズボンであるとする高度の蓋然性があるといわなくてはならない。

そのうえ、先に確定判決の証拠構造において示したように、二審判決においても、請求人の事件当夜の服装が鑑定をへた本件ジヤンパー・ズボンであることを前提として、ジヤンパー・ズボンに血痕斑が発見されなくても二度の洗濯をへているので異とするに足りないと判断しているのである。

そうだとすると、確定判決の証拠構造が新証拠に照らして維持するに耐えうるものであるか否かを検討する本件請求の審理においても請求人の事件当夜の服装が本件ジヤンパー・ズボンである蓋然性が高いものとして、それを前提に判断すべきものと思われる(このことは一次再審請求の抗告審も同様に解しており、決して背理とはいえない。)。

(二) ジヤンパー・ズボンの血痕付着の有無

(1) 宮内鑑定の成績

宮内鑑定書(22冊)、証人木村康の四六・七・九(23冊)及び五一・一二・二(26冊)各証言によると、千葉大学法医学教室の宮内義之介の指導監督のもとに、木村康が昭和四二年二月六日から昭和四四年三月一〇日にいたる間、本件ジヤンパー・ズボンについて血痕の有無の検査及び対照実験を、抗人線維素沈降素吸収試験、鏡検、フイブリンプレート法及びその他の方法を併用して行つたところ次の成績が得られたことが認められる。

(イ) 透過光線によつて褐色の斑痕が認められたジヤンパーの九箇所及びズボンの一七箇所(それ以外には斑痕を認めず、ルミノール散布においても陰性であつた。)を切り取りマラカイトグリーン試験を施していずれも陰性を認め、顕微鏡検査により斑痕の多くは布片の線維自身が一部褐色に汚染されたもので、人線維素の付着がないことを認めたが、一部斑痕には布片線維表面に暗褐色の付着物が認められたので、抗人線維素沈降素吸収試験により人線維素の有無を検査したところいずれも陰性であつた。

これらの検査により人線維素が付着していないことが明らかとなつたが、前記各斑痕についてフイブリンプレート法(牛フイブリノーゲンにトロピンを加えて作製したフイブリンプレート上に〇・三センチメートル大の検体をおきストレプトキナーゼ(一ミリリツトル中に一〇、〇〇〇単位)一滴を滴下し、三七度cに二四時間静置してフイブリンの溶解の有無を検査)により検査したところ、すべてフイブリンの溶解がみられず陰性であつた。

(ロ) 対照実験として、本件ジヤンパーと同質のコール天地及び本件ズボンと同質の綿ギヤバジン地にそれぞれ二〇cc容量の注射筒に採取した人血液を針を外して噴出付着させたうえ、三〇分からそれより長い六種の時間帯にわたり床上に放置して自然乾燥させた後三〇〇ccの砂をふりかけて水でもみ洗いし室内において自然乾燥させ、コール天地は九日目に、綿ギヤバジン地は二九日目に固型洗濯石けんを用い水でもみ洗いし、屋内に吊して乾燥させ、時々表面をもみ、あるいは叩く等の刺戟を加えた後前記同様の検査をした結果、三〇分後洗濯のものはマラカイトグリーン、ルミノール試験は陰性であつたものの、顕微鏡検査の結果布片の線維間に人線維素の付着が認められ、抗人線維素沈降素吸収試験及びフイブリンプレート法による試験はいずれも陽性であり、その他のものも検査結果はいずれも陽性であつた。

(2) 木村四四・五・一鑑定の成績

木村四四・五・一鑑定書(22冊)及び前記証人木村康の四六・七・九(23冊)、五一・一二・二(26冊)各証言によると、木村康が本件ズボンについて昭和四四年四月一〇日から同年五月一日にいたる間、先に平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書及び船尾忠孝の血痕検査成績において指摘された各一個の血痕反応が認められた箇所と思われるところの周辺及び対照として同ズボン布地の他の部分についてベンチジン試験、マラカイトグリーン試験、ルミノール試験、抗人ヘモグロビン沈降反応及びフイブリンプレート法試験をした結果、これらはいずれも陰性であり、別に行つた血痕対照試験は陽性であつたことが認められる。

(3) 宮内鑑定の検討

そこで右宮内鑑定における本件ジヤンパー・ズボンの血痕検査とその対照実験の成績の相違が何に由来するものであるかについて比較検討する。

(イ) フイブリンプレート法による血痕検査の特質については、右宮内鑑定書(中島敏著の参考文献を含む。)及び前記木村証人の各証言、証人高橋建吉の証言(26冊)によると、次のとおりである。

フイブリンプレート法による血痕検査は、人血中に特異的に多量に含まれているプロアクチベーターないしアクチベーターが血液の凝固の際に形成される人線維素(フイブリン)の中にとりこまれるのでこれに着目しフイブリンプレートの溶解現象を指標としてその存在を知り間接的に人血の証明をする方法で極めて鋭敏であり、微量の資料により血液の種属を証明しうるものとされ、人血が布片に付着した場合にはその線維間に深く人線維素が形成されるので、洗濯によつても脱落しにくく、洗濯後の血痕の検査も可能であり、水洗の場合は七回まで、洗剤使用の場合でも二回までの洗濯によつても血痕検査が可能という実験例があるとされている。

ところで、前記の各証拠によれば、フイブリンプレート法は鋭敏な血痕検査法であるが、この検査法においてフイブリンプレートの溶解現象が生じない理由として考えられるものは、人血液の付着がない場合、人血液が付着したが洗濯その他の事由により人線維素が破壊脱落して残存しない場合、人線維素が付着残存しているが、加熱、薬品による影響、紫外線の照射、長期間の経過にともなうかび等の酵素の作用等を原因として人線維素中のプロアクチベーターないしアクチベーターが変性してしまつた場合が挙げられる。

しかして、本件ジヤンパー・ズボンについては平塚鑑定三〇・一二・二二の際にズボンの全体にルミノールの散布がなされた外、ジヤンパー・ズボンに対しベンチジン間接法及び一部直接法により試験が行われ(平塚鑑定書(8冊)及び証人平塚静夫の三七・一〇・二二(15冊)、四六・六・二五(23冊)各証言)、その後船尾血痕検査の際にもジヤンパー・ズボンにベンチジン直接法により試験が行われ検体に直接ベンチジン試薬を滴下したこともあつた(船尾血痕検査成績(15冊))ことが認められる。さらに血液付着が考えられる時期から宮内鑑定までにすでに一〇年余の長年月を経過していることも認められるので、以上の薬品添加と長期間の経過の二点において、本件ジヤンパー・ズボンの血痕検査と対照実験とは条件を大きく異にしていることが明らかであり、この条件は、一応人線維素中のプロアクチベーターないしアクチベーターの変性を結果する原因となりうることが懸念される。

そこでこの点について検討してみる。

右薬品添加のうち、ベンチジン検査の場合は間接法によるときはもとより直接法によるときでも検体の一部を切り取つて検査する方法(平塚鑑定)のときは残存部分に影響がないことが明らかであるし、切取りをしないで直接検体に試薬を添加する方法によつた(船尾血痕検査)ときでも、元来ベンチジン法による検査は部分検査であつて検体の全体に対して大きく影響を与えることがないと考えられ、実際にも船尾血痕検査ではジヤンパーについて九箇所、ズボンについて一七箇所について検査したに止まり検体全体からみればごく一部に止まるものである(船尾血痕検査成績)。

請求人の供述のようにズボンに触つたらヌラヌラと感じるほどに血液が付着したとすれば、右検査程度の部分的な薬品添加によつて検体に付着した人線維素中のプロアクチベーターないしアクチベーターがすべて変性してそのためにフイブリンプレート法による検査がすべて陰性化したものとは考えにくいのであり、ベンチジン検査による薬品添加の影響は本件においては問題視するに及ばないと解される。

次にルミノール散布の影響の有無については、平塚鑑定の後に行われた船尾血痕検査成績において、一部に人血反応が認められているし(船尾血痕検査成績)、後述のように、宮内鑑定における顕微鏡検査等において、人線維素の付着残存がないことが確かめられているのであるから、ルミノール散布の影響(変性)もほとんど考慮しなくてよい。

次に、フイブリンプレート法による血痕検査について長期間の経過による影響の有無についてみると、前記証人木村康の五一・一二・二(26冊)及び同高橋建吉(26冊)の各証言によれば、三〇年経過した血痕についても陽性の反応を示した例があるとされ、あるいは一〇年位で陰性化するといわれて、専門家の意見が必ずしも一致しないのであるが、反応が陰性化するまでの経過期間の長短は検体の保存状態の良否によつて大きく左右されることが認められる。

本件ジヤンパー・ズボンの保存状況については、これらが昭和三〇年一二月二日又は三日にそれぞれ任意提出のうえ領置され、うち、ジヤンパーについては同月九日から遅くとも同月二二日ころまで、ズボンについては同月八日ころから遅くとも翌年二月六日ころまで鑑定のため平塚鑑定人のもとに保管されていた(平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書、同三一・二・六鑑定書(8冊))外は警察署又は検察庁において保管され、被告事件の確定により昭和三六年二月二二日以降において還付され(検察事務官の四〇・七・二七「写真原板保管の有無について」と題する書面添付の領置票写、(18冊))、守屋弁護人がこれを受領して以後同弁護士事務所において保管され、その間昭和三七年六月二五日ころ血痕検査のため船尾忠孝に対し一時交付された(証人斎藤ヒデの五一・七・二二、同青木正芳の各証言(各25冊)、船尾血痕検査成績)ことが認められる。

証人青木正芳の証言には、本件ジヤンパー・ズボンが昭和四〇年四月、一次再審請求の抗告審において審理中に裁判所に提出され、特別抗告棄却決定にともない昭和四四年弁護人に返還された趣旨の証言があるが、一次再審請求事件記録の押収物総目録にはその記載がなくこれを確認することができない。

本件ジヤンパー・ズボンの保存状況については以上の事実を認めることができるがそれ以上の詳細な事実関係を認める資料はない。

しかし、右事実関係からすれば、本件ジヤンパー・ズボンは事件後いち早く捜査官により押収され、一時鑑定人により保管された外は警察署又は警察署又は検察庁において証拠品として保管され、被告事件の確定後も一時鑑定人により保管された外は弁護人により弁護士事務所において重要証拠物件として保管されていたのであり、これらの物件の現状を見ても保存の不良による汚染や破損(鑑定処分による切取り等を除く。)を感じないこと等をも勘案するときは、良好な保存状態にあつたものと認められる。

したがつて、長年月の経過によるその間の紫外線照射やかびの影響等の血痕反応に対する影響もほとんど考慮する必要はないと考えられる。

そのうえ、右宮内鑑定においては、本件ジヤンパー・ズボンの斑痕二三個(鑑定書記載の斑痕は二六個のようであるが、検査した斑痕は二三個となつている。)について顕微鏡による検査をし、その大部分について線維素の付着残存がないこと、一部に線維素の付着が認められるがこれは抗人線維素沈降素吸収試験により人線維素でないことが確認され、そのうえでフイブリンプレート法による検査を行つているのであるから人線維素中のプロアクチベーターないしアクチベーターの変性による陰性化はほとんど考慮する必要がない。

(ロ) そこで、問題は付着血液の量に特段の差があつたか、あるいは付着血液の人線維素を破壊脱落させる原因となる洗濯等の条件に特段の差があつたかである。

請求人の自白による本件ジヤンパー・ズボンの付着血液量と洗濯等の事情は次のとおりである。

請求人の三〇・一二・六、同七、同九、同一二各員面調書、三〇・一二・一一検面調書(いずれも5冊)によると、請求人の自白による、犯行から本件ジヤンパー・ズボンの洗濯にいたるまでの経過は次のとおりであるという。

請求人は昭和三〇年一〇月一八日午前三時ころ忠兵衛方に行き一〇分間位中の様子を窺つた後屋内に入り忠兵衛方家族四人の頭部を薪割りで三・四回ずつ次々に切りつけて殺害し、その際四人の寝ていた辺りが血でいつぱいになつたように思われ、そのあとたんすを物色し、木小屋から杉葉を屋内に運ぶ等して放火し、その間三〇分位を要し、外に出て小原方前の辺りで一・二分様子をみ、山道を帰る途中手でズボンに触つたらヌラヌラとし血がいつぱいついたと感じたので大沢堤の溜池で土手の土又は溜池の底土をまぜて約一〇分位をかけてジヤンパーとズボン、手足、顔を洗い、ズボンをはいているときに船越の方からトラツクが近づいてくる音がしたというのである。

もし、請求人の右供述のとおりとすれば、請求人は当時着用していた本件ジヤンパー・ズボンに相当量の返り血が付着したものと想定され、その返り血は、他の証拠(村上重一の三〇・一二・一二員面調書、司法警察員の三〇・一二・一七捜査報告書(各2冊)及び検察官の三〇・一二・二〇実況見分調書(4冊))をも考え合わせ、請求人が血を浴びた後屋内の物色、放火をし、次いで山道を歩いているうちに自然に乾燥、固着するにまかせられたうえ、返り血を浴びたジヤンパー・ズボンは三〇分以上すぎた午前三時五〇分すぎころ土をまぜて溜池の水でもみ洗いされたことになる。

次に、請求人の三〇・一二・九員面調書(5冊)、上部道子の三一・一・一四検面調書(3冊)、斎藤美代子(23冊)、遠藤(旧姓上部)道子(24冊)の各弁護人に対する供述録取書面、日本家庭用合成洗剤工業会の「合成洗剤等統計資料」二通(23冊)によれば、本件ジヤンパーは事件後九日目ころの昭和三〇年一〇月二七日ころ姉美代子が風呂の前夜の残り湯を用い、固形油脂石けんによりこれを手でもみ洗いし、本件ズボンは事件後二九日目ころの同年一一月一五・六日ころ東京の上部道子が固形油脂石けんにより水で、手でこれをもみ洗いしたことが認められる。

その後本件ジヤンパー・ズボンは捜査官によつて押収され、平塚鑑定、船尾血痕検査成績等による鑑定のための検査処理がなされたが、主として警察署、検察庁、弁護士事務所において保存されてきたことは前述のとおりであるが、その間にさらに洗濯がなされた形跡を認める資料は何もなく、却つて、本件ズボンの現状にみられる汚れ具合からみるとその後の洗濯はなく、また前述の上部道子による洗濯も念入りなものではなかつたものと認められる。

以上の事実から本件ジヤンパー・ズボンの血痕検査と対照実験とを比較すると請求人の供述から想定される血液付着量は手で触つてヌラヌラとした感じというだけでそれ以上にその量を確定する資料はなく、また大沢堤の溜池でジヤンパー・ズボンを洗濯するまでの血液の乾燥、固着に影響を及ぼす気象、温度、湿度等が不明であり、不確定要素が多く、他方対照実験においても血液付着後室内の自然乾燥にまかせたというだけで、本件ジヤンパー・ズボンに加わつたと想定される人体の体温による乾燥、固着についての影響を考慮していないこと、洗濯の方法は、一・二回目の洗濯の時間的間隔、使用洗剤、用水、洗濯の手法等両者ともほぼ同様の条件を考慮して行われているが、一回目の洗濯において土をまぜたか、砂をまぜたかの相違があること等の諸点において両者が完全に同一の条件下にあつたとは言えないし、もとより条件を全く同一にすることは不可能なことである。

しかし、ここでは、本件ジヤンパー・ズボンについてなされた右フイブリンプレート法等による検査結果が陰性を示したことが、一旦付着した血液の人線維素が洗濯等の物理的刺戟により破壊脱落したことにもとづくものではなく、当初から血液の付着がなかつたことによるものであることの蓋然性があるか否かが問題なのである。これを布えんすれば、もし、請求人の供述を前提とした場合に、右対照実験の成績が本件ジヤンパー・ズボンの血痕検査にも妥当すべき蓋然性があると考えられるのに拘らず、血痕検査の結果が対照実験の成績と反対に陰性を示したとすれば、もはや右前提が正しいものとはいえなくなり、むしろ本件ジヤンパー・ズボンには当初から血液の付着がなかつたことの蓋然性を肯定することができるのである。したがつて、問題はその妥当すべき蓋然性の有無の問題でもあるから、両者の条件が完全に同一である必要はなく、近似的に同等と評価できる条件であればよいことになる。

右の観点からみるときは、付着血液の量は不確定であるけれども手で触つてヌラヌラとした感じの量とすれば、対照実験の場合とほぼ同等とみなしてよく、その他洗濯についての条件も近似的に同等と評価できる。

その外には、前記平塚鑑定による切取りがあつたことを除き、付着血液の人線維素の破壊脱落に影響を及ぼすべき物理的刺戟や作為が本件ジヤンパー・ズボンに加えられたことを認める資料はない。

(ハ) 以上の考察を総合して推論するに、対照実験の成績は本件ジヤンパー・ズボンの血痕検査についても妥当すべき蓋然性があると認められるところ、もし、請求人の供述のように、ズボンにヌラヌラと感じるほどの血がついたとすれば、ジヤンパーにも同様に血がついた筈であり、これをそれぞれ二度にわたつて洗濯したとしても、ジヤンパー・ズボンに付着したであろう血液の人線維素は、その全量が破壊脱落してしまうことはなく残存し、したがつて宮内鑑定の綿密な検査において、鏡検、抗人線維素沈降素吸収試験及びフイブリンプレート法による人血試験がいずれも陽性に認められるべき蓋然性があつたというべきである。それがいずれも陰性を示したことは本件ジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつたとみるべき蓋然性があるといえる。

(ニ) しかして、従来の証拠においても、前記平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書(8冊)及び船尾血痕検査成績(15冊)において本件ジヤンパー・ズボンのごく一部に微小の血痕反応がえられた外は血痕反応が認められず、証人平塚静夫の三七・一〇・二二証言(15冊)によれば、平塚鑑定人は当初から血がついていないと思つたというのであり、これらの証拠をも総合するときは本件ジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつたとする蓋然性はいよいよ高いものといえよう。

(4) 木村鑑定の検討

木村鑑定においては、先に平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定書及び船尾血痕検査成績において血痕反応が認められた部位と思われる部分の周辺について、血痕予備試験として、ベンチジン検査、マラカイトグリーン検査及びルミノール発光検査を行い、血痕本試験として抗人ヘモグロビン沈降反応検査及びフイブリンプレート法による検査を行つたところ、いずれも陰性を示したことが認められる。

右検査成績のうち、フイブリンプレート法による検査成績について右平塚、船尾両鑑定時から木村鑑定時までの長期間の推移やその他の条件の介入により本来陽性であるべきものが陰性化したのではないかを考慮する必要がほとんどないことは前記宮内鑑定について考察したところと同様であり、右平塚、船尾両鑑定及び木村鑑定における各検査方法と成績とを総合すれば、右木村鑑定において検査成績がいずれも陰性を示したのは、前二者の鑑定において資料を使い果たしたか又は前二者の鑑定と木村鑑定との検査部位が一致しないことに原因したものとみるべき蓋然性が高い。

したがつて木村鑑定の右成績をもつてしては宮内鑑定に関する前述の推論を動かすにいたらない。

(5) 他の鑑定による切取りの影響

平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定のために本件ジヤンパー・ズボンの斑痕部分が多数箇所切り取られたことは同鑑定書、証人平塚静夫の三七・一〇・二二証言(15冊)により明らかであるので、その切取りにより血痕部分が消費し尽されてしまい宮内鑑定において陰性を示す結果になつたのではないかとの疑いも一応ありそうである。

しかし、本件ジヤンパー・ズボンについてはその後も右宮内、木村鑑定により多数箇所の切取りがなされたのに拘らず、右ジヤンパー・ズボンの現状を見る限り、その切除部分は、ズボンについては左右脇ポケツトの開口部に横約六・〇ないし七・〇センチメートル、縦約一・四ないし一・八センチメートルの長方形の部分がそれぞれ二箇所、股ボタン取付部に長径約二・六センチメートル、短径約一・〇センチメートルのほぼ円形の部分が二箇所、左すその下縁付近に横約二・七ないし三・〇センチメートル、縦約一・〇ないし一・一センチメートルの長方形の部分が二箇所、それぞれ切り取られているほかは、正方形ないしそれに近い長方形状の、大きいもので約一・六センチメートル平方程度の、小さいもので約〇・二センチメートル平方程度の大小さまざまの多数の部分が主として前側において散在的に切り取られているが、全体として観察したところは布地のごく一部が散在的に切り取られた状況であること、ジヤンパーについては、主として前側と袖の部分において、大きいもので約〇・七ないし〇・九センチメートル平方程度の、小さいもので〇・二ないし〇・四センチメートル平方程度の、正方形ないしそれに近い長方形状の部分がところどころ切り取られているが、全体として観察したところは、布地のうち、ズボンの切取りに比較してもはるかに少ないごく一部がところどころ切り取られた状況であることが、認められるのである。

もし、ヌラヌラと感じたという請求人の供述が事実とすれば、血液付着の部位はこの程度の切取り部分に限られる筈はなく、これらの切除によつてもなお他に斑痕部分が残存する筈と思われるので、宮内鑑定においては少くとも一部にでも血痕検査の成績が陽性を示すものが認められてよく、したがつてヌラヌラと感じた量の血痕付着を解明するについては右切除による影響は殆んどないとみてよい。

(三) 請求人の自白及び掛布団襟当ての血痕の証拠価値に及ぼす影響

以上検討したように、請求人が事件当日着用していた本件ジヤンパー・ズボンには、新証拠により当初から血液の付着がなかつた蓋然性が高いところ、このことは一つにはジヤンパー・ズボンに血液がついたという請求人の供述及びその前提のもとにジヤンパー・ズボンを洗濯したという請求人の供述の真実性に重大な疑惑をいだかしめるにいたる(この真実性については後に再検討する。)ばかりか、二つには掛布団襟当ての血痕に関しても、確定判決で認定の殺害状況に照らしジヤンパー・ズボンに血液が付着しないのに頭髪に血液が付着してこれが二次的、三次的に掛布団襟当てに付着することにより多数の血痕斑が生じたであろうかについても疑いを容れることとならざるをえない。

そもそも、掛布団襟当ての血痕が自白の補強証拠となるのは、単に襟当ての血痕に被害者らの全部又は一部の者の血液型と同型の血液が付着しているというだけでは足りないのであつて、その血液付着が請求人の犯行を介して生じたと認められるかあるいは少くともその可能性が否定されないことが必要である。そうだとすると、前述のように、請求人の頭髪に返り血が付着し、これが二次的、三次的に掛布団襟当てに付着したであろうかについて疑いがもたれる以上は、襟当ての血痕が請求人の自白にいう犯行を介して生じたことについて疑いがもたれることになるから、たとい、犯行を介して生じたことの可能性がすべて否定されるにはいたらないとしても、補強証拠としての価値が著しく減殺されることにならざるをえない。

三  薪割りが本件犯行の兇器ではないとの主張について

請求人のこの点の主張はその意見書第四章記載のとおりであるが、すでに一次再審請求においてもこれが主張され、争点として判断をへ排斥されているところ、本件請求においては一次再審請求の証拠のほか新証拠として三一・一・一二宮城県警察本部長の警察庁刑事局長等あての報告書を証拠として追加し、それによれば、忠兵衛らの死体を解剖した三木敏行及び村上次男が解剖所見にもとづいて考察した結果兇器として鉈の可能性があることを指摘したというのである。

しかし、右報告書の記載によつても薪割りが兇器であることの可能性を否定していないのであり、右報告書は請求人の主張を根拠づける証拠価値をほとんどもたないと考えられる。

このように新証拠として付加された証拠に実質的な証拠価値がない場合、これを従来の証拠、ことに一次再審請求において提出された証拠と加えて総合判断するとすれば、その判断作業の実質は一次再審請求において争点として実質的な判断をへた事実と証拠について更に同一の判断作業をくり返すこととなり、刑事訴訟法四四七条二項の規定に照らして許されないというべきである。

四  自白の真実性

二審判決は、請求人が松山事件について本格的な取調べを受けてから僅か一日半ほどで犯行を自白したこと、請求人がアリバイに窮し、同房者から衣類の血は洗つても薬を使つて調べれば誰の血か判るさと話され、俺も悪運が尽きたから白状するかなあ、と言つたあとで白状したという自白の動機をも根拠として請求人の自白の任意性を認め、また、右の事情のほか請求人の自白が他の証拠により認められる事実と符合し、経験者でなければよく述べえない事項を含むとして、これを根拠に自白の真実性を肯定し、その具体的供述内容として多数の点を挙げている。

請求人の自白の真実性を検討するには、自白の任意性ないしは真実性に至大の影響をもつと思われる自白の経過や動機の検討を欠かせないので先ずそれを検討し、次に自白の個々の供述内容について検討する。

もつとも個々の供述内容の検討を進めるについては、個々の供述について必ずしも逐一新証拠が存在するとは限らないが、自白は特段の事情がない限り有機的な関連をもつものとして統一的に把握すべきものであり、また、すでに検討してきたとおり、二審判決が自白の決定的裏付けとみた掛布団襟当ての血痕は、それについてなされた三木、古畑両鑑定の証拠価値が新証拠に照らして著しく減弱したものと認められたことにより、自白の決定的裏付けと言えるかについて疑問が投じられるにいたり、さらにジヤンパー・ズボンの血痕不発見についても新証拠に照らして当初から血液が付着していなかつた蓋然性が高いと認められたことにより、これが掛布団襟当ての血痕のもつ証拠価値を著しく減弱させるにいたつたばかりか、ジヤンパー・ズボンの血液付着及び洗濯についての請求人の供述の真実性に疑問を投じるにいたつたという事情がある。

したがつてこれらの事情を踏まえて個々の供述につき新証拠のあるものも、特段の新証拠のないものも合わせて真実性の再検討をすることは、証拠の総合評価上欠かせないことであり、このようにしても確定判決の心証にみだりに介入することには決してならないものと解する。

1  自白にいたる経過と自白の動機

(一) 確定判決の審理等に顕われた証拠による認定

確定判決の審理等に顕われた証拠、すなわち、請求人の三〇・一二・六員面調書二通(5冊、21冊)、金成一の三〇・一二・六、柴和喜雄の三〇・一二・六各員面調書(各3冊)、証人亀井安兵衛の三一・一一・一三、同千葉彰男の三一・一一・一三、同佐藤好一の三一・一一・二九、同高橋勘市の三一・一二・二五各証言(いずれも6冊)によると、請求人が逮捕されてから自白するまでの経過は次のとおりとなつている。

すなわち、請求人は昭和三〇年一二月二日東京都板橋において別件の傷害事件の容疑により逮捕され、同月三日その身柄が松山事件捜査本部に回されて同日傷害事件により、翌四日銃刀法関係事件により、それぞれ取調べをうけ、同月五日勾留のうえ、正式に松山事件捜査本部に回されて、ここに、同事件について捜査官の取調べをうけるようになり、同日と翌六日の日中の取調べを通じて、請求人の松山事件当夜(昭和三〇年一〇月一七日夜から翌朝まで)の行動について追及され、これに対して小牛田に入質に行つた帰りに「鹿島台駅で降り、真直ぐ帰つて母の店に泊り、翌日家に帰つた。」、よく考えてみると、それは誤りで「鹿島台駅で降り金山という朝鮮人の店で飲酒したが、その後は分らず、翌朝柴和喜雄方におり、午前一時ころ「三好」の前で酔つて歩いているのを連れて来られたと聞いた。」と供述しアリバイの主張をしたが、裏付け捜査によりアリバイがくずれ、そのころ同房者の高橋勘市に対し「ズボンを池で洗つて干したがズボンの血が誰のものか分るか。」と話し、高橋から「薬を使つて調べれば分るさ。」と言われたところ、六日夜の取調べにおいて、初めアリバイについてそれまでと同様のことを一時間ほど繰り返していたが「明日本当のことをいうから少し考えさせてくれ。」と言い、捜査官から話せるなら今夜話してもよいだろうと言われると、午後八時すぎになつて犯行を自供した、というのである。

右の証拠資料をみる限りでは、請求人は、松山事件の本格的な取調べを受け始めてから僅か一日余のうちに、アリバイの主張がくずれ、またズボンの血が洗濯しても薬品で検査されれば発覚するであろうことを覚り、犯行をかくし切れないものと自覚して犯行を自白したかの観があり、二審判決において前述の各証拠等をもとにして右のような認定に到達したことは無理もない。

(二) 自白後否認の経過

請求人は一二月六日夜松山事件の犯行を自白し、同月一五日まで自白を維持し、同日夜否認の手記を書いて翌一六日朝捜査官に手交したが、同日の取調べで否認を撤回して自白を維持するとともに否認の手記を書いた理由を供述し、その後再び否認し、それ以後捜査、公判を通じて否認を続けているものであることは請求人の各員面調書(ことに三〇・一二・一六員面調書)、検面調書及び確定事件記録中の各公判調書に照らして明らかである。

(三) 否認の手記等による自白の動機

請求人の否認の手記(三〇・一二・一六員面調書添付(6冊)、以下「手記」という。)及び三三・一二・二五上申書(8冊)によれば、請求人が逮捕されて以来自白するまでの経過と自白の動機は次のとおりであるという。

請求人は、昭和三〇年一二月二日朝東京都板橋の金沢方で逮捕されて板橋警察署に連行され、同警察署において宮城県警察本部の佐藤警部から松山事件に関し、事件当夜の行動、宿泊場所について尋ねられ、同日の夜行列車で松山町巡査部長派出所に押送され、翌三日捜査官から傷害事件と松山事件の取調べを受け、事件当夜の行動を尋ねられたが記憶を呼び戻すことができず、同月四日午前九時ころから午後一一時ころまで主として松山事件について取調べをうけ、前日同様アリバイについて尋ねられたが思い出せず、次の日もまた調べられるのかと思うと頭が変になりそうに思つた。同月五日も午前九時ころから一日中アリバイの件について尋ねられたがどうしても思い出せず、こんなことを毎日やられたんでは頭が狂つてしまうんではないかと思つた。そのころ、自分の気持ちを話せるのは同房者の高橋しかないと思い、自分が松山事件で調べられていることを話すと、高橋から「ここにきたらやらないことでもやつたことにして早く出た方がよい。そして裁判のときに本当のことを言うんだ。」と言われ、また、取調室から寒い留置場に疲れて帰つてくると、高橋から「未決に行けば何でも食べられ、外を散歩することもでき、室には布団もある。」と聞かされた。未決に行つて早く母に会いたい。裁判の日にはつきり言えばよいと思い犯行を認めた。というのである。

(四) 逮捕後の取調べ状況

請求人に対する三〇・一一・二六逮捕状及び三〇・一二・五勾留状(いずれも1冊)の記載によると、請求人は昭和三〇年一二月二日午後六時四〇分板橋警察署において、傷害事件の容疑(同年八月中に他人を手で引きずつて転がし、更に二・三〇回殴打暴行して約一〇日間の歯根膜炎を負わせたという事件)により逮捕され、翌三日午前一〇時古川警察署に引致され、同月四日午後五時五〇分検察官に送致され、同月五日勾留請求がなされたことが認められる。

右事実と請求人の前記手記等からみると、請求人は昭和三〇年一二月二日朝東京で居住していた板橋の金沢方から宮城県警察本部の捜査官により板橋警察署に任意同行され、同警察署において同日夕刻まで滞留させられたうえ、午後六時四〇分に逮捕されたことになるのであるが、傷害事件の逮捕状はすでに一一月二六日付発布のものが用意されていたのであり被疑事実も前述のように単純のものであつたから、宮城県警察本部から捜査官がわざわざ逮捕に赴いたのは、松山事件の犯人として追及するために別件逮捕を目論んだものと認められても弁解の余地がなく(証人亀井安兵衛の三四・一・二二証言(8冊)も同旨の証言をしている。)、一二月二日朝任意同行の形で請求人を板橋警察署に同行し直ちに逮捕状を示して逮捕手続に入れたのに夕方までその手続をのばして時間を稼ぎ、その間松山事件に関して事件当日の請求人の行動等について質問をしたであろうことは容易に推察することができる。

次に請求人が逮捕されてから自白するまでに作成された請求人の供述調書は、確定判決の審理手続から今日まで提出されたもので記録上見られるものを日付順に拾うと、三〇・一二・五検面調書(弁解録取書、傷害被疑事件、但しその中で銃刀法関係事件についても言及。)、三〇・一二・五員面調書(参考人調書)、三〇・一二・六員面調書(否認)、三〇・一二・六員面調書(自白)だけであり、前述した一二月三日傷害事件、一二月四日銃刀法関係事件について捜査官が取調べた供述調書は見当らない。

しかし、請求人が一二月二日傷害事件により逮捕されたことと、同月五日これにより勾留請求がなされたいきさつからみれば、右の各取調べがあつたことは否定できない。

しかしながら、右傷害事件は極めて単純な事件であり、銃刀法関係事件も前記検察官に対する弁解録取書によると旧軍隊の銃剣を所持していたという事件のようであるから、それだけの事実の取調べにまる二日間を費したとは思えない。松山事件という重大な犯罪事件の容疑者として別件逮捕と認められても弁解の余地のない状況下での逮捕であつたいきさつからみても逮捕後の時間を本命の松山事件の捜査に有効に利用しようとするのは自然の趨と思われ、一二月三日、四日の二日間にわたり松山事件についての取調べがあつたことは十分推察される。ことに一二月四日は銃刀法関係事件の取調べをしたというのであるが、これは逮捕状の被疑事実にもなつていないのであり、勾留請求のためにも急いで取り調べる必要のない事件と思われるから、一二月四日は銃刀法関係事件よりも主として松山事件について取調べをしたであろうと推察しうるのである。

(五) 高橋勘市の員面調書の新規性とこれを加えての自白の経過、動機の検討

裁判不提出記録中の高橋勘市の三〇・一二・四、同五、同六、同七、同八及び同一〇各員面調書(いずれも13冊)、(これらの調書は請求人と留置場で同房した高橋が毎日請求人の房内における行動や請求人が話した取調べ状況を克明に捜査官に供述した内容のものであり、同様の内容についてすでに確定判決の審理及び一次再審請求の審理において同人が証人として証言している(前者は三一・一二・二五(6冊)、後者は三八・七・六(16冊))ところであるが、右各員面調書は毎日の日付順に詳細な内容を供述しているうえ、右証言とも内容の異なるものもあり、請求人に対する取調べ状況及び請求人の自白の経緯を知る好個の資料であり、新規性のある証拠である。)及び同人の三〇・一二・一六、三〇・一二・一九各検面調書(各13冊)、(これらの証拠もその内容に徴し、前述の証言にはない供述もあり、新規性のある証拠である。)を通覧すると高橋勘市は昭和三〇年一二月三日から九日まで請求人と古川警察署留置場で同房したが、その間同月四日から同月九日まで毎日請求人の房内における行動や請求人が話した取調べの状況を詳細に捜査官に供述しているところ、その内容は請求人の供述調書にも劣らないほど委曲を尽しており、局外者にしては余りにも関心が高過ぎると言わざるをえないのみならず、前記検面調書によれば、請求人に対して正直に言つた方がよいとか、一二月五日自分の経験を生かし悪いことをしたら早く白状したらよいとか示唆したことも窺われる。証人高橋の前記証言(三八・七・六)によれば同人は暴行、窃盗、詐欺の容疑で勾留されており、自己の被疑事実を否認していたことが認められるので、このような事情をも考慮すると、高橋は自己の事件について有利に取扱つてもらいたいとの考慮から松山事件の捜査についてかなり積極的に捜査官に協力していた疑いがあり、請求人が手記において述べているように、「ここにきたらやらないことでもやつたことにして早く出たらよい云々」とまで話したかどうかはともかくとして請求人に対し自白に向けて影響を及ぼしうる、かなり積極的な示唆的言動をした疑いが濃い。

さらに、前記高橋の三〇・一二・八員面調書によると、請求人が一二月七日取調べから房に帰つて来て「俺は大それたことをしたからやつたことを全部話して、こんな寒いところから暖かい未決に行つて自動車運転でもやるかな。」と話したというのであるが、「未決が暖かい。」等ということは未決囚の経験のある高橋(同人の三一・一二・二五証言によると同人は前科五犯という。)には知りえても、その経験のない請求人(前記手記によると、請求人は手錠をかけられたのも初めてという。)には特段の事由のない限り知りえないことであつて、右特段の事由を窺わせる資料もないところからすれば、これは高橋が房内において請求人に知恵をつけたものであると看るのが相当であつて、さすれば手記の内容とも符合する。

他方、高橋の前記各員面調書の内容が詳細なことは、請求人が高橋を信頼し、取調べの状況を逐一詳細に話したことを意味するものと思われ、この点も自己の気持ちを話せるのは高橋の外はないと思つて話したという手記の内容と通じるものがある。請求人の高橋に対する信頼が大きかつたことは、請求人が一二月八日までその都度取調べの状況を高橋に話していたが、これがすべて捜査官に筒抜けになつていて高橋から裏切られたと知るや、「警察から聞かれても何も聞いていないと言つてくれ。」と高橋に言い、それ以後一切話さなくなつたこと、その翌日二人は別房となつたこと(高橋の三〇・一二・一〇員面調書、請求人の上申書)によつてもその一端が窺える。

このように、請求人は留置場房内において、高橋を頼りとしその示唆による影響を受け易い立場にあつたものと認められる。

ところで、高橋の前記各員面調書によると次のような記載がある。

「 」内は請求人の言の要旨である。

(1) 一二月四日、午後五時ころ取調べから帰つてくると、「また夜調べられるかも知れないがだまつて頭を下げているんだ。」と言つた(三〇・一二・四員面調書)。

(2) 右同日午後五時ころ取調べから帰つた。高橋から終つたかときくと「まだまだうんとある。松山事件で調べられた。」、「松山事件の前日友達と小牛田に行き入質し、飲酒して一人で帰つたがその後が分らない。翌朝八時ころ母から松山事件を知らされた。アリバイがある。」と言つた。高橋からアリバイがあつても正直に言わないと実地検証するからかくしてもだめだと話した。「俺は頭がくしやくしやしてこんがらかつてくるので何が何だか分らなくなる。」と言つて立つたり坐つたり落ちつかない(三〇・一二・五員面調書)。

(3) 一二月六日午前七時ころ起きて前日(五日)何を調べられたかをきくと、「松山事件のことをきかれたが俺は一七日の晩小牛田の質屋に行き酒を飲んで駅まで来たことは分るがその後は覚えていず云々」と言い、昼ころ食事のため帰つたのでどうだつたときくと「時間のことをきかれた。あんた前科何犯や。」と言うので、五犯だが刑は大したことないと言うと、「それでは俺も白状するか。」と言つた(三〇・一二・六員面調書)。

右(1)ないし(3)記載の請求人の言動は、当時まだ犯行を自白していなかつた請求人にとつてむしろ有利な事柄に属し、捜査官に協力的な高橋の供述としては捜査官に迎合的なものがなく信用してよいと思われるところ、右供述にみられる請求人の言動に徴すれば、請求人は連日松山事件当夜の行動について追及を受け記憶を呼び戻せないままに窮地に立たされ混乱した疑いが極めて濃い。

請求人が事件当夜の行動について、単にアリバイ主張のためにことさらに虚偽の弁解を重ねたのではなく、真実、行動の一部について記憶を呼び戻せなかつた疑いが濃いことは、請求人が犯行を自白していた際の供述(三〇・一二・七、同一二各員面調書、三〇・一二・一一検面調書)中でも「松山事件当夜、鹿島台駅からの帰途金山飲食店に寄つた。」と述べたり、「寄つたかどうか分らない。」、「瓦工場まで行く途中の記憶がない。」等と述べていることからも窺われる。

(六) まとめ

以上考察してきたところを総合すると、請求人は一二月二日の逮捕以来連日松山事件当夜の行動について取調べをうけ、その行動の記憶が甦らないままに幾つかの思いつきの供述をした(それは単にアリバイ主張のためにことさらに虚偽の弁解を重ねたものとはいえない。)が、いずれも裏付けができずに追及を重ねられて混乱し、捜査官の追及から免れようとし、同房者の高橋から未決監の待遇のよさ等を教えられ、同人の示唆による影響を受けて自白するにいたつた疑いが濃く、換言すれば虚偽の自白を誘発し易い情況のもとで自白した疑いが濃いのであり、二審判決の認定のように、本格的な取調べを受けてから一日半足らずで、アリバイの主張がくずれ、同房の高橋から衣類の血は洗つても薬で調べれば誰の血か判るさと話され、俺も悪運がつきたから白状するかなあ、といつた、そのような経過と心境のもとに自白したものとはとうてい断定できない。

しかして、もし二審判決認定のような動機から犯行を自白するにいたつたものとすれば、三〇・一二・一五手記(三〇・一二・一六員面調書添付)において「係長さんズボン、セーターには血はついてありませんでしたでしよう。いやいくらかはついてあつた事だろうと思います。その血は東京の金沢さん方で店員をしていた時の牛豚の血です。云云」と断定的に述べている態度と相容れないといわざるをえない。請求人は右手記を書く際、ジヤンパー・ズボンに関する平塚静夫の三〇・一二・二二鑑定結果についてこれを知つていたという証拠はなく、むしろ全証拠に徴すれば知つていなかつたというべきである。

すでに述べたように、本件ジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつた蓋然性が高いとすれば右手記の記載とも符合し、なおさら二審判決のいう自白の動機には疑いが持たれるのである。

以上のように、虚偽の自白を誘発し易い情況のもとに請求人の自白がなされた疑いがあるとすれば、これが直ちに自白の任意性を失わせることになるか否かはともかくとして、自白全体の真実性に至大の影響をもつものとして、個々の供述の真実性評価に当り、これを根底に据えて考慮すべきものと思われる。

もつとも請求人の自白は具体的かつ詳細であり、他の証拠や事実と符合するところが多いことは後に検討するとおりであるが、もし、請求人が自ら経験したのでない事柄を述べたものとすれば、何故に具体的、詳細、かつ、他の証拠や事実と符合する供述ができたかが問題とされなければならない。

この点は個々の供述内容の真実性ないしは秘密性として次に個別的に吟味を加える。

2  個々の供述内容の真実性

先ず個々の供述内容の真実性を検討するに当り、次の点を考慮しなければならない。

すなわち、すでに縷述したとおり、自白に存する問題点として、自白が虚偽の自白を誘発し易い情況のもとになされた疑いが濃いこと、ジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつた蓋然性が高いと認められたため、ジヤンパー・ズボンに血がついたという供述及びそれらの洗濯についての供述が虚偽の疑いが濃くなり、これが直接犯行に関する供述ではないにしても、犯行と密接しあるいは重要な関連を有する事項の供述として、自白全体の真実性に少なからざる暗影を与えざるをえないこと及び自白の裏付け証拠上の問題として、掛布団襟当ての血痕についてなされた三木、古畑両鑑定の証拠価値が減弱したものと認められ、またジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着しなかつた蓋然性が高いと判断されたこととにより、請求人の自白が襟当ての血痕により殆んど科学的に、決定的に裏付けられているとした二審判決の評価は動揺するのを免れなくなつたことの各問題点が新証拠に照らして明らかとなつたのである。

このような問題点がありながらも、なおも犯行に関する自白に十分の真実性があるとするためには、自白が具体的、詳細であるとか客観的事実や他の証拠に合致するというだけでなく、自白の内容が経験者でなければよく述べえない事項である等、前述の問題点を無視しても差支えないほどの高度の真実性が認められなければならない。

捜査官の誘導によつてなされ、あるいはその可能性のある自白、経験者でなくても述べうる事項についての自白だからといつてこれが必ずしも自白を虚偽で信用できないものとすることと結びつくものでないことは多言を要しないが、前記の問題点があるのに、これをこえて有罪の心証を形成するとすれば、自白自体に高度の真実性の保障を求めざるをえないのである。

(一) 犯行の動機

確定判決は本件犯行の動機を次のとおり認定している。

すなわち、請求人は飲食店等に対する借財がかさみ、他方料理店「二葉」の女中渡辺智子との結婚を望んでいたところ、同人に前借金があることを聞かされ、同人と家出しても一緒になろうと思い、かれこれ金銭に窮していたおり、事件の前々日、自宅に忠兵衛の妻が建築材料の木材を買いに来たのを見て普請をするなら二・三万円の金はあるだろうと思い、事件の前夜、金員窃取の決意をしたことがそもそもの動機となり、遂には強盗殺人、放火に発展したというのである。

ところで、請求人は自白調書のなかで犯行の動機につき、飲食店等に対する借財がかさんだことと飲酒代等の遊興費がほしかつたことを挙げているが、「二葉」の女中の前借金や家出して一緒になるための金銭の必要についてはその一部を犯行否認後の供述調書で述べているものの、これは一度も犯行の動機としては述べられていない(請求人の三〇・一二・六、同七各員面調書、三〇・一二・一〇(弁録)、同一一各検面調書(以上は自白調書)、三〇・一二・二八(二通)、同二九各検面調書(以上は否認後の調書)(いずれも5冊))。

請求人が「二葉」の女中渡辺智子と家出しても一緒になりたいと思い、その前借金の支払いや家出のために金銭に窮したことも犯行の動機であるならば、これは犯行の動機のなかでかなりの重みをもつものと思われるのに、縷次の自白調書において何故一度も動機として供述されなかつたのか疑問が残るのである。

確定判決が認定した本件犯行の動機のうち右の点以外の点について、請求人は自白調書のなかでその認定にそう事実を供述しているのであるが、そのなかで忠兵衛の妻が木材を買いに来たときの状況を次のとおり述べている(三〇・一二・七員面調書)。

犯行のあつた二日位前の一〇月一六日ころの午前一〇時ころ、忠兵衛の奥さんがリヤカーを挽いて木材を買いに来た。その日は仕事を休んでいたときで確か中座敷にいたときと思うが、兄と取引きする状況を見ていた。忠兵衛の奥さんは名前は分らないが、四二・三歳で右か左の眼の悪い人で、四・五年前にも四・五回自分の家に来たことがあるので知つている。と。

請求人は果たして忠兵衛の妻が木材を買いに来たのを見ていたのであろうか。

忠兵衛の妻が右同日午前九時か一〇時ころリヤカーを挽いて木材を買いに来たことは斎藤常雄の三〇・一二・一四員面調書(3冊)及び証人大窪留蔵の証言(1冊)によつて認められるところ、斎藤きさの三〇・一二・一九検面調書(3冊)には一〇月一六日は稲上げの日で一家総出で仕事をしたが、請求人が午前中手伝わないので、昼近く、今日は手伝うんだぞと注意した旨、金森むつ子の三〇・一二・二二検面調書(1冊)には忠兵衛の妻が木材を買いにきたとき請求人が在宅していたのを見た旨の各供述があり、上部孝志の三〇・一二・二二検面調書(7冊)にも請求人の在宅を裏付けるかの如き供述がある。

これらの証拠によると、忠兵衛の妻が木材を買いに来た時刻ころ請求人が在宅していたことになり、これは請求人の前記供述の一部に符合する。

しかし、他方、斎藤常雄の前記員面調書によれば、請求人の兄常雄は二人の弟に製材を手伝つて貰つたが、祖母(きさ)に聞くと請求人が朝食をして出て行つたというので探さなかつたというのであり これによれば、忠兵衛の妻が木材を買いに来た際請求人が不在であつたことになるところ、この供述は請求人が犯行を自白していた当時(昭和三〇年一二月一四日)のものであつて、常雄が請求人の犯行を否定するためことさらに作為して供述したものとは考えにくく、一概に虚偽の供述として排斥することには疑問が感じられる。

さらに斎藤常雄の右員面調書によれば兄常雄(当時一家の中心となつて働いていた。)は忠兵衛の妻が初めて会つた人であり、どこの人か分らず、同人から七・八年前に夫が世話になつたということを聞いて忠兵衛の妻と分つたこと及び忠兵衛の妻が三寸角、一六尺ものの杉材一本を買つて行つたことを供述している。

請求人の兄が忠兵衛の妻と、すぐには分らなかつた相手を請求人が果たして識別できたか否かについても疑問なしとしない。

請求人は三〇・一二・七員面調書において「忠兵衛さんの家で増築するということを聞いていました云々。」と供述したが、その外は「増築する材料を買つて行く状況を見て二・三万円の金があると思つた。」(一二・六員面調書)、「材木を買いに来たので、これは家の普請でもするのだろうと思つた。」(一二・一〇検察官に対する弁解録取書、一二・一一検面調書)、「忠兵衛の妻と兄とが材料のことで話していたが詳しい内容は分らない。」(一二・一四員面調書)と供述している。

右供述のうち、忠兵衛方で増築する話しを聞いていた旨の供述はそれをいつどこで誰からどのように聞いたのかなどの具体的な供述がなく、それを窺わせる資料もないので不自然であり、その他の供述も、請求人が果たして、忠兵衛の妻が木材一本を買つて行くのを見、同人と兄の話しの内容も分らないのに、同人方の増築を想像したであろうか、唐突の感を免れない。

請求人は、忠兵衛の妻が材木を買いに来たときの状況を三〇・一二・七員面調書で前述のとおりその容貌まで具体的に、詳しく供述しているのであるが、この状況については、裁判不提出記録中の大窪留蔵の三〇・一〇・二〇員面調書(10冊)により、捜査官が事件直後から、忠兵衛の妻が請求人方から材木を買つて行つたことの情報をえており、その際の状況についてそのころすでに請求人の兄等からさらに情報をえていたであろうことは十分推察され、また、新証拠として提出された宮城県警察本部長から警察庁刑事局長等あての「松山町の一家四人おう殺並びに放火事件検挙について」と題する書面によると、捜査官は忠兵衛の妻の行動、性行等について詳細に調べ尽していたことが認められるので、捜査官が忠兵衛の妻の容貌等について事情を知つていたものと窺われるから、請求人が捜査官の取調べに合わせて供述することも可能な状況にあつたと思われ、真実性の高い供述とはいえない。

したがつて、請求人が忠兵衛の妻が木材を買つて行くのを見ていたかについても証拠上疑いを容れる余地があるというべきである。

以上のように、犯行の動機について請求人の供述には幾つかの疑問を容れる余地があり、供述内容が具体的かつ詳細であるにもかかわらず必ずしも真実性の高いものとはいえなく、まして、確定判決において認定された犯行の動機についてはその真偽について一層の疑問を容れざるをえない。

(二) 犯行の内容

請求人は忠兵衛方一家四人に対し、忠兵衛、妻よし子、男児優一、女児淑子の順に、自分の位置を二度変えながらそれぞれ薪割りで三・四回ずつ切りつけて殺害した後、薪割りを二人の子供の間にポンと捨て、押入れから何かを取り出して忠兵衛夫婦の顔の辺りにかけ、たんすのなかを探したが金がなかつたので、犯跡を隠ぺいするため、木小屋から杉葉一丸を持つて来て、忠兵衛夫婦の頭の辺りに置き、玄関外の左側脇から木屑入りの箱を持つて来て杉葉にマツチで点火した後木屑をその上に散らしたと供述している(請求人の三〇・一二・六、同七、同八各員面調書、三〇・一二・一一検面調書(5冊)、三〇・一二・九司法警察員の実況見分調書、三〇・一二・一三検察官の検証調書(各4冊)中の請求人の指示説明)。

請求人の犯行に関する供述は、放火材料の杉葉を置いた位置と放火材料として杉葉の外に木箱に入つた木屑を用いたか否か及び兇器の薪割りをどこから持ち出したかその所在場所に関する供述のように変遷している外は前後変遷がなく他の証拠によつて認められる事件前後の忠兵衛方の状況と符合する(三〇・一〇・一八(2冊)、三〇・一二・九(4冊)司法警察員の各実況見分調書、小原優子の三〇・一〇・二一員面調書(2冊)、三〇・一二・一三司法警察員の「自供にもとづく写真記録作成について」と題する書面(4冊))。

しかし、右供述のうち、被害者ら殺害の順序は秘密性のある供述ではあるが、後に検討するとおり請求人が新聞記事を読んで死体の順序を記憶しており、これに合わせてその順序で切りつけて殺害した旨を供述した疑いがあり、また調書の記載は殺害に当り二度自分の位置を変えて切りつけたとし、その位置まで詳細に供述した内容となつているのであるが、この供述は高度の昂奮状態にあつた筈と思われる犯人の記憶としては鮮明にすぎて却つて不自然と思われるふしもないではなく、しかも、これらの供述内容についてはその裏付けがなく真相に合致するとの保障は何もない。

殺害後放火したという順序も被害者ら四人の頭部に本件犯行の如き多数の傷害を与えることが放火後では不可能であることは専門家の鑑定をまつまでもなく常識上理解できる事柄であり、捜査官が当初から知りえた事柄に属し、秘密性のあることとはいえない。

次に、兇器の薪割りを子供らの間に捨てたとかあるいは押入れから何か取り出して忠兵衛夫婦の顔にかけたという供述については、請求人が不要となつた兇器を現場に遺留するのにその状況まで詳細に記憶していたか否かについて多大の疑問があるのみならず、捜査官は事件直後から薪割りの刃部が子供らの死体の間にあり、また忠兵衛夫婦の死体頭部に厚手の布片が付着していたことを知悉していた筈であり(三〇・一〇・一八司法警察員の実況見分調書(2冊)、三木敏行、村上次男の忠兵衛、よし子の死体に関する各鑑定書(6冊))、また薪割りは殺害犯行の兇器として捜査官により早くから意識されその鑑定手続等もなされていたこと(裁判不提出記録中の司法警察員の三〇・一〇・一八「兇器発見について」と題する捜査報告書(14冊)、同三〇・一〇・二五、三〇・一一・一四まさかり一個についての各鑑定嘱託書(11冊)、三〇・一二・一荒井晴夫、丹羽口徹吉共同鑑定書(1冊))が認められるから、薪割りを兇器とし、殺害後子供らの間に捨てたこと、押入れから何か取り出して忠兵衛夫婦の顔にかけたことも、その一部がすでに捜査官に知れており必ずしも秘密性のある供述とは言い難く、捜査官の取調べに合わせた供述をしたとみる余地もありえ、真実性の高い供述とは言えない。

杉葉に放火したという点については秘密性のある供述ということができ、忠兵衛方木小屋の中には杉葉の束が置いてあつて右供述を裏付けていることは確かである(司法警察員の三〇・一二・九実況見分調書、三〇・一二・一三「自供にもとづく写真記録作成について」(4冊)、大窪留蔵の三〇・一二・九(10冊)、木皿正二の三〇・一二・二六(3冊)各員面調書)。事件直後の司法警察員の実況見分調書(三〇・一〇・一八)には木小屋の記載はあるが杉葉の記述はない。

しかし、請求人はこの点につき、「捜査官から何に火をつけたときかれ、初め障子と答えたがそうではないだろうと言われ、杉葉がよいと思い杉葉と言つた。」と供述している(二審二回公判(8冊))ところ、当時の田舎においては放火材料として杉葉が恰好のものであることは容易に思いつくところであり、請求人がすでに右一〇・一八実況見分調書に出ている木小屋から、これを持つて来て火をつけたと思いつきで述べることもあながち不自然とは言い難く、請求人の右弁解を一概に排斥することはできない。

そのうえ、放火材料とそれを置いて放火した場所に関しては自白の変遷がみられ、初めは杉葉一丸を六畳間の障子のところに置いて放火した(三〇・一二・六、同七各員面調書)としていたが後には八畳間の忠兵衛夫婦の頭の辺に杉葉を置き、玄関外の左側脇から木屑入りの箱を持つてきて、杉葉に放火し、そのうえに木屑を散らした(三〇・一二・八員面調書)と供述を変えている。

建築材料の木屑が事件直前現場にあつたことは裁判不提出記録中の大窪留蔵の三〇・一〇・二〇員面調書(10冊)により請求人の取調べに入る前にすでに捜査官がその知識をもつていたと推察され、また、忠兵衛の頭部付近に炭片が存在していてこれが薪木よりやや太い杉材ようのものが燃えて炭化したものであるとみられ(司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書(2冊)、佐藤孝治の三〇・一一・二九鑑定書(4冊))、炭片のあつた位置と状況からしてこの炭片が放火材料と何らかの関連があることは捜査官において事前に十分推測していた事情と認められるから、放火材料とその置いた場所に関する右供述の変遷は、捜査官が途中で右炭片に気づいて誘導したことにより、これに供述を合わせたためとみる余地が多分にある。

したがつて、右供述は杉葉の束や木屑箱(大窪留蔵の三〇・一二・九員面調書(10冊))の存在という他の証拠によつて認められる事実と符合するからと言つて必ずしも真実性が高いとはいえず、却つて思いつきで、あるいは捜査官の取調べに合わせて他の証拠や事実に合わせた供述をしたとみる余地もあり、経験者でなければ述べえない供述とは必ずしもいえない。

さらに、兇器の薪割りの所在場所に関する請求人の供述は次のように変転していることが認められる。

すなわち、「殺すに刃物をと思い六畳を探すと玄関のところの岩窯の後の土間のところに柄だけ見えたものがあり、出してみると三尺位の柄のまさかりであつた。」(三〇・一二・六員面調書)、「まさかりは岩かまどの後の縁側の続きの板の間に置いてあつた。」(三〇・一二・七員面調書)、「縁側近くの六畳間」(三〇・一二・九司法警察員実況見分調書の指示説明)、「板の間(六畳間)にあつた棒様のものを取つてみたらまさかりだつた云々。」(三〇・一二・九員面調書添付の手記)、「まさかりの位置は、岩窯の後側にあつたのを持つて来たと話したが本当は風呂場の前の壁に柄を上にして立てかけてあつたのを見つけて持つて行つた。」(三〇・一二・九員面調書)と変転している。

右のように、薪割りの所在場所に関する請求人の供述は、岩窯の後ろの土間-縁側続きの板の間-風呂場の壁と大別して三転しているのであるが、一二月九日の実況見分に立会つた際には六畳板の間の縁側寄りの所を指示説明し、実況見分から帰つた後の同日の取調べにおいて、それまでに記載していた手記(三〇・一二・九員面調書添付)を捜査官に差し出し、それには薪割りの所在場所を板の間としていた。ところが、土間と縁側及び六畳板の間と縁側の仕切が土壁となつていて、玄関から直接薪割りを発見し手にすることのできないことが判明し、兇器を持ち出した場所に関する請求人のそれまでの供述が不合理なところから捜査官よりさらに追及を受け、その結果屋外の風呂場の壁に供述を変更したものであることが認められる(証人亀井安兵衛の二審、二回公判証言(8冊)、但し同証言中、実況見分の際供述を変えたとの点は信用できない。)。

ところで、薪割りの所在場所に関する供述の変更が屋内に止まるのであれば記憶違いの訂正も考慮されようが、わざわざ兇器を探しに屋外に出たということになると単なる記憶違いではすまされないばかりか、請求人は前の供述では、「岩窯の後の土間のところに柄だけ見えたものがあり出してみると三尺位の柄のまさかりであつた。」と具体的にその状況を述べていたのに、後には、玄関の戸が開いていてその光で風呂場の壁に立てかけてあつた薪割りが見えたとその様子をこれも詳細に述べているのである(三〇・一二・九員面調書)。しかるに、具体的に供述した前の供述が誤りであり、後の供述に変更したことについての納得するにたりる事情の説明は何もない。

これらの供述変遷から考えられることは、請求人は兇器の薪割りの所在場所についての認識がなく、その場限りの思いつきの供述をしていた疑いが極めて濃く、犯人であるならば、兇器の所在について、それが屋内にあつたか屋外から持ちこんだものであるかの記憶が混乱することは通常ありえないことといわねばならない。

証人大窪留蔵の証言(一審五回公判(1冊))では薪割りは風呂場の前辺りにあつたと述べており、裁判不提出記録中の同人の三〇・一二・一四検面調書(10冊)にはさらに判然と「一〇月一六日も一七日も薪割りは風呂場の壁に置いてあつたのを見た。」と述べている。しかし裁判不提出記録中の同人の三〇・一二・八、同九各員面調書(10冊)では「薪割りはどこに置いてあつたか分らない。」とも述べており、外には薪割りの所在場所について裏付けとなる資料はない。

ところで、右各取調べ状況によると、捜査官においては、請求人の供述の変転もあつて、当初から薪割りの所在場所の確定に力をそそいでいたと容易に推察しうるところ、その努力下の二日間にわたる取調べによつても所在場所を思い出せなかつた右大窪が、請求人の自供を待ち、突如記憶をとりもどし、それは風呂場の壁の所にあつた旨判然と述べ、右証言においてもその内容を維持するところに何がしかの不自然さを禁じえず、これらの点に照らし、また右各員面調書と対比しても、右大窪証言及び同人の検面調書は請求人の供述に合わせた捜査官の誘導によりえられた疑いがあり、十分信用できるものとはいえない。結局、薪割りが風呂場の壁に立てかけてあつたという請求人の供述も右大窪証言や大窪の検面調書が必ずしも裏付けとして十分でなく、果たして真相に合致するか否か分明でないといわねばならない。

(三) 瓦工場での休憩

瓦工場の釜の中で休憩したという請求人の供述について二審判決は、請求人が瓦工場の釜の中で遊んだりしたことがあるので時間をまつため休息するには究竟なところであり、アリバイの立たない請求人が思いつきで創作して述べたものとは認められないとしている。

確かに、請求人は以前に瓦工場の釜の中で友達と遊びその様子を知つていたことが認められる(請求人の三〇・一二・八、同一二各員面調書(5冊))から二審判決の見方も一つの見方といえる。しかし、右瓦工場での休憩の件は、請求人の初めの自白調書である三〇・一二・六、同七の両日の各員面調書にはない。同各調書では瓦工場に言及しながら、その前を通つて行つたことになつており休憩の件には何ら触れられないで、自白後三日目の三〇・一二・八員面調書で初めて登場してくるのである。

検察官は松山事件のような重大事件であれば犯人から先ず概括的に事情を聴取し、その後矛盾点を追及する等して順次全面的な自白をみるにいたることは捜査の常道であり、当初から瓦工場の釜での休憩が供述に顕われなくても奇異ではなく、また請求人は犯行前夜からアリバイが転々とし、かつ当時の請求人の生活態度からして請求人が右休憩の事実を秘していたことが考えられるというのであるが、瓦工場の釜の中で三時間も時間待ちのため休憩したのであれば、これは当夜の行動の連鎖の中で大きな一こまとなるべきものであり、同調書(一二・七員面調書)中で触れている金山飲食店での飲食と同列に、瓦工場に言及した際に休憩の事実に触れるのが自然とも思われるし、また請求人が右休憩の事実を秘しておかなければならない理由は見い出せない。

請求人が犯行を自白して三日目の一二月八日初めて瓦工場の釜の中での休憩の件を供述したのは、すでに犯行を自白した請求人が捜査官からそれまでの供述と犯行時刻との不一致を追及されて、勝手を知つた瓦工場の釜の中での休憩を案出した(したがつて、その供述は具体的で現場の状況と符合しうる。)という疑いを容れる余地がある。

この点の請求人の供述は確かに秘密性のある供述であり、客観的な状況とも符合するけれども、その供述経過及び請求人の瓦工場に関する予備知識からみて必ずしも経験者でなければよく述べえない供述ともいえなく、また請求人が確かに瓦工場の中で休憩したことの裏付けとして十分な証拠もないのであり、真実性の高い供述とはいえない。

(四) 割山から入る山道の往復

二審判決は、割山から入る山道は通常人の通らないところであり、請求人も以前には夜間そこを通つたことがないと供述していること、検察官の夜間検証の際「あの晩ここまで来る途中、この辺で躓いたように記憶する。」とか「あの晩はもつと暗かつたと思う。」とか指示説明した(検察官の三〇・一二・一三検証調書(4冊))ことを経験者でなければよく述べえない供述であるとしている。

これらの点のうち、検証の際の指示説明については、右検証調書に確かに右趣旨の指示説明があるところ、請求人はこの点に関し、右検証の際「暗いのによく登つた、一度もつまづかなかつたか。」ときかれたのでつまづいたことにし、事件当夜は小牛田に行つた晩で検証の晩よりももつと暗かつたように思い「もつと暗かつたと思う。」と検察官に述べた旨供述している(二審二回公判(8冊))。

請求人の右指示説明は経験事実についての供述とみられるふしもあるけれども、右公判廷における弁解にも一概に虚偽のものとして排斥できないものがあり、結局右指示説明はその裏付けとなる証拠もなく経験事実の供述とまでは断定はできない。

しかして、山道を往復した点については、これも秘密性のある供述には違いないが、右山道は新田部落に通じる山道で請求人は夜間同所を通つたことはないものの、新田部落に行くときは何時もそこを通つていたことが認められ(請求人の三〇・一二・一一検面調書、二審二回公判供述)、前記検察官の検証調書によれば、割山から右山道への入口は土地の事情に通じない者には分りにくいところであるが、請求人は前記検察官の夜間検証の際無灯火でかつ下駄ばきなのに拘らず、灯火をつけた係員より速く歩行したことが認められるのであり、請求人はこの山道にかなり慣れていたことが窺われる。

したがつて、請求人が犯行を自白するに当り、忠兵衛方に往復する道順として、慣れた道である山道を案出して述べることもありえないことではなく必ずしも経験者でなければよく述べえないというものではない。

二審判決は、請求人が右山道を通つたことの裏付けとして山道の入口に近い佐々木立平方の飼い犬が唸つたことをも挙げており、松山事件のあつた朝の午前二時すぎころ同人方の飼い犬が唸つたという証言(証人佐々木立平証言一審四回公判(1冊))があるが、時間的に請求人の通つたという時刻(請求人が現場を通つたとすれば、その時刻は請求人の三〇・一二・七員面調書、検察官の三〇・一二・二〇実況見分調書(4冊)により、午前三時前後ころと推測される。)と符合しない疑いがあり、むしろ、奥寺剛が馬に乗つて付近を通つたという(証人奥寺剛の証言、一審六回公判(1冊)、同人の三〇・一二・二三検面調書(10冊))時刻の方が犬の唸つたという時刻に近いと思われる。犬が唸つたという点は請求人が山道を通つたことの裏付けとしては余りに薄弱であり、他にこの山道を通つたという客観的な裏付けはない。

(五) 忠兵衛方屋内の状況に関する供述

二審判決は、請求人が忠兵衛方の前で一〇分間位、中の様子を窺つてから玄関の戸を開けたこと、玄関の戸の施錠の有無、電灯が一個しかなく、その吊してあつた場所、明るさ、屋内の状況、家族の就寝状況について供述しているが、請求人は以前に一度も忠兵衛方に行つたことがなく、よい加減に創作して述べたところが偶然に客観的事実に合致したものとは思えず、経験者にして初めて述べうるところであるとしている。

これらの点に関する請求人の供述は具体的かつ詳細であり、客観的事実に符合する(もつとも、家族の就寝状況は平素の就寝状況とは符合しないものの、事件後の死体の位置関係に符合する。)ことが認められる(請求人の員面、検面各自白調書(5冊)、司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書、小原優子の三〇・一〇・二一員面調書(各2冊))。

請求人は二審二回公判廷において、忠兵衛方家族の就寝状況を除きその余の忠兵衛方の状況について、創作して供述したと述べているのであるが、公判廷における被告人の応答は熟慮の余裕もなくなされ、事実の歪曲がなく真相を吐露することがある反面において、必ずしも真相を伝えないことが往々ありうるから、請求人が公判廷において創作して供述したと述べたからといつて、直ちにそれを前提として、創作供述の有無だけを検討すれば足りるものとするには躊躇を感ぜざるをえない。

ことに前記公判調書における請求人の供述状況によれば、請求人は被告人質問においてかなり問い詰められ、返答に窮した事情が窺われるのであり、このような事情のもとではその感を深くするのである。

問題は、請求人の捜査官に対する前記供述が真に経験した者でなければ述べえない事情にあつたか否かである。

家族の就寝状況及び自在鈎の有無に関する供述については後の検討に譲るが、その外の忠兵衛方屋内の状況については、すでに前記小原優子の員面調書(2冊)により焼失前の状況が詳細に図面付きで供述され、それによれば玄関の戸が無施錠であること、その作り、間取り、戸障子、電灯が一個しかなく昼間と夜間でその吊し方が異なること及びその明るさまで図面に表示されており、岩窯は事件直前に土間に移したものであるが(証人大窪留蔵の証言一審五回公判(1冊))、移動後の位置は司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書により明らかになつていたのであるから、捜査官は請求人の取調べに入る前にこれらの情況を知悉しており、それを請求人の取調べに利用しなかつたと考えることは却つて不自然といわねばならない。

このことは例えば、四〇ワツトの電灯の点についてみても、請求人は三〇・一二・七員面調書において、四〇燭光位と供述しており、これは小原優子の前記員面調書に四〇燭光とあることと符合するが、後に三〇・一二・一一検面調書において四〇ワツトと供述を変えていることが認められるのである。請求人が当時四〇燭光と四〇ワットとの相違を十分意識して述べたかは疑問であり、その区別をさほど意識しないままに捜査官の取調べに応じて供述を変えていた疑いもなしとしない。

もつとも、請求人の三〇・一二・六、同八員面調書には、忠兵衛方屋内の障子について、六畳間と八畳間の境の障子が一尺五寸位開いていたこと、障子が破れていたことの供述があるが、このうち障子が開いていたか否かは思いつきでも述べうることでありその客観的な裏付けもないので真実性の高い供述とはいえないものの、障子の破れについては前述の小原優子の員面調書には記載されていない。

裁判不提出記録中の尾形ミユキの三〇・一二・八員面調書(12冊)には障子の破れについての記載があるが、これは請求人がその点の供述をした右三〇・一二・八員面調書と同日の取調べにかかるものであり、尾形の取調べの結果を請求人の取調べに利用しえたかは明らかでなく、請求人のこの点の供述は秘密性のある経験的事実の供述とみる余地が十分にあり、真実性が高いというべきである。

忠兵衛方の前で一〇分間位様子を窺つたという供述については、物盗りに入るとすればなかの様子を窺つてから入ることは自然の成行きと思われ、これは経験者でなくても容易に述べうる事柄である。

このようにみてくると、請求人の忠兵衛方屋内の状況に関する供述は、後の検討に譲つた分は別として、一部に経験的事実の供述と見る余地があつて真実性が高いと認められる(尤もそうだと断定はできない。)供述があるものの、大部分は必ずしも経験者でなければ述べえないとはいえないものであり、具体的、かつ詳細で、客観的事実とも符合する供述ではあるが真実性の高い供述とは必ずしもいえない。

(六) 忠兵衛方家族が寝ていた順序

忠兵衛方家族が寝ていた順序について、請求人は事件直後の河北新報に掲載された事件現場の見取図に書いてあつた死体の状況を覚えていて供述したと述べている(三〇・一二・三〇検面調書(21冊)、一審二四回公判(7冊)、二審二回公判(8冊)廷各供述)。

二審判決は、新聞記事を見てから約五〇日も経てなお被害者の寝ていた順序を正確に記憶しているということは、この事件に特殊の関心を持つている者でなければ通常考えられないし、新聞記事にはどちら向きに寝ていたかまでは書いていないのに、請求人はそれをも述べており、この供述は経験者でなければ述べえないところであるとしている。

請求人の言う河北新報の記事は昭和三〇年一〇月一九日付新聞の記事であり(同日付河北新報写(15冊))、それには忠兵衛方八畳間の押入れ側から縁側の方へ、二枚の布団が敷かれ、忠兵衛、妻よし子が一枚の布団に、優一、淑子が他の一枚の布団に、その順序で寝ていた状況が見取図つきで掲載されていたことが認められるのであるが、請求人がこの記事を見てから同年一二月六日自白するまでこれを覚えていたということは確かに二審判決が言うように特殊の関心を持つていたことを示すものであることを否定できない。

請求人が河北新報の松山事件記事を読んでいたことは同人の自白調書である三〇・一二・一一検面調書、三〇・一二・一四員面調書(各5冊)にも出ており、かなりの関心を持つていたことは間違いないと思われる。

しかし、松山事件は、当時寒村(司法警察員、検察官の事件現場に関する各実況見分調書、検証調書により窺える。)に突発した一家四人惨殺のうえ放火、死体焼損という衝撃的な大事件であり、連日のようにその記事が新聞に大きく掲載されていた(河北新報三〇・一〇・一九、同二二、同二三、同二六写(15冊))のであるから、事件発生現場に近い請求人としても大きな関心の的であつたであろうことは推察するに難くないのみならず、請求人は当時街の札つきの不良であつて事あるごとに注目され易く、現に松山事件発生直後から警察官が請求人方付近を徘徊し、請求人は二・三度事件当日の自己の行動を尋ねられたり、母から「幸夫お前でないか、やつたらやつたでいい。」等ときかれる(請求人の三〇・一二・一四員面調書(5冊)、斎藤ひでの三〇・一二・一〇員面調書(12冊)等当初から疑いの目で見られ、請求人もこれを意識していたことが認められるのであるから、請求人が松山事件について特殊の関心を持つたとしても必ずしも不自然とはいえない。

被害者らが寝ていた向きについて確かに前記新聞の記事には掲載されていないけれども、司法警察員の三〇・一〇・一八実況見分調書(2冊)、被害者らの死体に関する三木敏行、村上次男の各鑑定書(6冊)により被害者らが頭部に受けた傷害の様相がすでに捜査官に判明していたのであるから、傷害の部位から寝ていた向きは自ら明らかであり、請求人が捜査官の取調べに合わせて供述することは決して不可能ではない。

一家四人を惨殺する犯人の心理は通常の者であれば高度の昂奮状態にある筈であり、請求人がその犯人だとして、四人の被害者がそれぞれどちらを向いていて頭部のどちら側を打撃したかを正確に記憶していることは、あらかじめ記憶しておきたい意図でもあれば格別、通常の場合却つて不自然とさえ思われるところである。

したがつて、請求人が河北新報の記事を記憶していて被害者らの寝ていた順序を供述したということも、ありえないこととして一概に排斥することはできない。

(七) 杉葉及び稲杭についての供述

請求人は三〇・一二・八員面調書において、放火材料に関し、「木小屋の中は真暗だつたが入つて行くと「ツカア」(足に触つて痛いの意)としたので杉葉だと思つた。」と供述している。

請求人はこの点に関し、二審二回公判廷において、杉葉があつたと述べると捜査官から上つたら痛いだろうと言われて供述したと弁解している。

放火材料として杉葉を用いたことを思いつき等で供述したとしても必ずしも不自然なものと言えないことは前述のとおりであるから、請求人が右弁解のようないきさつにより右員面調書記載の供述をしたということも一概に排斥することはできず、したがつて、右員面調書記載の供述が経験的事実の供述であるとは必ずしも断定できない。

次に請求人は検察官の前記夜間検証(三〇・一二・一三検証調書)に立会い、その際木小屋に立てかけてあつた稲杭について「この稲杭にぶつかつた記憶がないので、この位置に立てかけてなかつたのではないかと思います。」と説明したことが認められる。

そして、この稲杭は事件当時にはその場になく、事件直後死体解剖台を作るのに用いられた後木小屋に立てかけられたものであることが認められる(木皿正二の三〇・一二・二六員面調書(3冊))ので、請求人の右説明はこの事実に符合し、かつ秘密性の高い供述といわねばならない。

請求人はこの点に関し、「杉葉が足に触つた外は何も触つたものがないことにしていたのでそう述べた。」と弁解しているが、必ずしも納得できないものがあり、経験事実の供述とみる余地のある真実性の高い供述といえる。しかしそうと断定することはできない。

(八) ジヤンパー・ズボンへの血痕付着とその洗濯とその後の処置

請求人の捜査官に対する供述によると、請求人は犯行を終つての帰途、ズボンに触つたらヌラヌラとし血がいつぱいついたと感じたので大沢堤の溜池でジヤンパー・ズボンを洗濯し、それをしぼつてズボンを着用し、疲れたので約二時間、近くの杉山の中で休み、午前六時かその前ころ家に帰り、濡れたジヤンパー・ズボンを干し、徳利セーターとパンツ姿で家の中に入り、敷いてあつた布団に寝たこと、当時の服装は、上衣は鼠色ジヤンパー・えび茶徳利セーターと丸首半袖シヤツを着用し、下衣は綿製茶色ズボンの下に直に白パンツをはき、下ズボンは着用していなかつたこと、になつており、これらの点の供述にはほとんど変遷がない(請求人の三〇・一二・六、同七、同八、同九、同一〇、同一二各員面調書、三〇・一二・一一検面調書(いずれも5冊))。

二審判決は、これらの供述についてジヤンパー・ズボンの洗濯の件をとりあげ、これを請求人が経験者でなければよく述べえない事実であるとみ、請求人の自白の真実性を認める資料の一つとして把握しているのであるが、ジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつた蓋然性が高く、請求人がジヤンパー・ズボンを大沢堤の溜池で洗濯したという供述及びその前提となるジヤンパー・ズボンへの血液付着の供述の真実性には重大な疑いが持たれるに至つたことは先に述べたとおりである。

さらにジヤンパー・ズボンに血液が付着したという供述の真実性について布えんするに、それが事実とすれば物体に血液の付着した状況は請求人と犯行とを結びつける重要な物証となるものであるから、捜査官としてはその血液付着の位置、程度、触れた態様等についてより具体的詳細なる供述を求め、かつその部分に重点を置いて血痕反応の有無の鑑定を目論むのが捜査の常道と思慮されるところ、本件においてはヌラヌラとしたと表現された付着物体についての供述が極めて具体性に欠けるあいまい模糊とした供述に終始しており、これらのことや、その裏付証拠もないことなどをも考え合わせると、右ヌラヌラとした旨の供述は、請求人が思いつくままに述べた、事実に基づかない虚偽の供述である疑いが濃いものと言わざるをえない。

また、ジヤンパー・ズボンの洗濯の点についても、裁判不提出記録中の高橋勘市の三〇・一二・六員面調書(これは従来の資料にはなく、新規性のある証拠である。(13冊))によると、請求人が犯行を自白する以前の昭和三〇年一二月六日の昼、食事のため取調べから帰房した請求人が「着物の洗濯をしたろうと調べられた。」旨を同房の高橋に話したことが認められ、これによれば、請求人が犯行を自白する以前において、すでに捜査官から着衣の件を追及されていたことが窺われるのであつて、請求人が捜査官からの追及に答えを合わせて供述をした疑いがもたれ、なおその際本件事件現場のような田舎では土地勘のある請求人が堤の溜池で、土をまぜて洗濯をしたと思いつくままに供述したことはありえないことではない。

右供述は、二審判決が言うほどに経験者でなければ述べえない事柄とは必ずしも言えない。

ジヤンパー・ズボンの干し場についての供述が後述のとおり変転しているのに、洗濯の件については前後供述に変動がなく、一見真実性があるかの如くにみえないでもない。しかし、この供述が変らないのは、洗濯をしたという現地の溜池があるだけで、それ以外には供述の真否を確めるきめてになる裏付け資料がなく、捜査官としてもそれ以上の追及をしなかつたことによるものとも思われ、果たして現実に右溜池で右洗濯をしたか否かの裏付けは何もない。

次に、請求人は、ジヤンパー・ズボンを干して徳利セーターとパンツ姿で家に入つて寝たことになつている(三〇・一二・八員面調書)けれども、パンツのうえに直に濡れたズボンをはき、二時間近くも杉山の中で休んでいたというのであるから、いかにズボンを固く絞つて水切りをしたとしてもパンツが相当に濡れるものと思料されるところ、濡れたパンツをはいたまま寝ることは特段の事情の認められない本件では不自然である。濡れたジヤンパー・ズボンを干すというのであれば、濡れたパンツも同様干す等の処置をしなければならないのに、その処置に関する供述は何もない。これは捜査官がジヤンパー・ズボンを洗濯したという請求人の供述にとらわれてパンツやその他の衣類の処置についての追及をしなかつたせいとも思われるが、請求人が捜査官の追及のままに事の真相にそわない供述をしたことの例証といえなくもない。

以上の請求人の供述には変遷がないが家に帰つてジヤンパー・ズボンを干したというその干し方については次のように変遷をたどつている。

すなわち、初め、「ジヤンパーとズボンを縁側の物干しにかけた。」と供述しその場所を図示した(三〇・一二・八員面調書)が後に「ひき屑小屋の中のきうりかけ用の竹が二・三把はりのうえに上げてあつた。ばらになつていた方の竹一-二本をとつて並べてその竹にかけた。」(三〇・一二・九員面調書)、「きうり竹に干したというのはうそで、ひき屑小屋のひき屑のうえの北隅にまとめておいた。」(三〇・一二・一〇員面調書)と毎日供述を変転させているのである。

この供述の変転は請求人の供述がその都度の裏付け捜査(斎藤美代子の三〇・一二・八員面調書(13冊)、斎藤常雄の三〇・一二・九員面調書(12冊))と符合しないところから捜査官の追及を受けた結果生じたものと推認されるのであるが、それにしても右三〇・一二・七、同八、同九各員面調書で詳細に供述しているジヤンパー・ズボンの干し場についての供述は全く虚偽であることは明白であり、三〇・一二・一〇員面調書で落ちついた干し場についての供述も果たして真実に合致するか否か、その裏付けは全くないのである。

これらの供述は、請求人が容疑の根幹である犯行をすべて自白していた際の供述であつて、もし請求人が犯人であるとするならば、ジヤンパー・ズボンの干し場についてことさらにうそを重ね、捜査官の追及の種を作る必要が奈辺にあつたのか。干し場がどこであるかは刑事責任の軽重にはかかわりのない事柄であり、請求人が自己の刑事責任の軽減をはかるためにうそを重ねたとは思えないし、ほかにも真実をおおつておく必要があつたという事情は何も見い出せなく、さらにこのような異常体験について、請求人が経験事実の記憶を失つてその場限りの辻褄を合わせたとも思えないのであり、理解に苦しむところである。

結局、請求人は捜査官の追及に合わせて自己の経験しない虚偽の事実を次々に弁解し糊塗してきたものとみるほかはない。

(九) 逃走途中のその他の出来ごと

請求人は、犯行後午前三時三〇分ころ忠兵衛方を出て一・二分燃え上るかどうか様子を見て逃走の途中、割山から大きな道路に出るとき半鐘の音を聞いたこと、ジヤンパー・ズボンを大沢堤の溜池で土をまぜて洗い、その際、手、足、顔を洗つたが頭髪を洗わなかつたこと、洗つたズボンをはいているときに船越の方からトラツクが近づいて来たので一〇〇メートル位入つた杉山の中にかくれ、腰を下したときサイレンの音を聞いたこと、その後約二時間杉山の中で休んだあと下駄を持ち素足で走つて午前六時かその前ごろ家に帰つたことを自白調書の中で述べている(三〇・一二・七、同八、同九各員面調書、三〇・一二・一二検面調書)。

先ず、トラツクの通過、半鐘、サイレンの打吹鳴について検討すると、永瀬章の鑑定書(火災の進展状況(6冊))、鳥海等の三〇・一二・九員面調書(トラツクで通過した時刻(2冊))、検察官の三〇・一二・二〇実況見分調書(事件現場から大沢堤までの歩行所要時間(4冊))、司法警察員の三〇・一二・一七捜査報告書(トラツク運転の経路と所要時間(2冊))と請求人の三〇・一二・九員面調書(忠兵衛方前で一・二分様子を見、洗濯に一〇分位を要した。)の各証拠を総合すると、もし請求人が放火後すぐ忠兵衛方を出て自供どおりの行動をしたとすれば、大沢堤の溜池で洗濯していた時刻は午前四時前後ころと推定され、トラツクの通りかかつた推定時刻とほぼ見合うものと認められ、またこの時刻を基準とすると、請求人が半鐘やサイレンを聞いたというのは、午前三時五〇分ころから四時すぎころまで半鐘を鳴らしたという村上重雄の三〇・一二・九員面調書(2冊)及び午前四時ころから四時一〇分ころまでサイレンを鳴らしたという菊地光の三〇・一二・九員面調書(2冊)とも時間的に符合すると考えられる。

しかし、右トラツクは毎朝定期的に野菜運搬のため運行されていたもので、トラツク運送をしていた鳥海等、村上重一らは火災の第一発見者にひとしい者達であつたことは鳥海等の前記員面調書、村上重一の三〇・一二・一二員面調書(2冊)により明らかであり、同人らが事件直後から火災発見の状況、事件当日のトラツクの運行状況について詳しく捜査を受け、また半鐘やサイレンの打吹鳴についても関係者の捜査が行われていたであろうことは、関係者の供述調書が存在すると否とを問わず容易に推察されるところである(本件請求の審理において検察官から裁判不提出記録六冊の提出を受け従来の資料と合わせて審理の資料にしたが、松山事件の捜査資料は決してこれらの資料だけに止まるものとは思えない。右記録には文書として完成されたもののみが綴られているけれども、捜査の過程においては文書として完成していない捜査メモ等が多数作られた筈である。)。

請求人はトラツクの件に関し、捜査官の誘導により述べたと言つている(二審二回公判(8冊))が、右事情からすると、トラツクの通過や半鐘、サイレンの打吹鳴の事情を捜査官が請求人の取調べ前に知悉していたと考えられ、トラツクの件のみならず、半鐘、サイレンの打吹鳴についても捜査官の誘導の可能性があり、経験者でなければ述べえない事柄とは言えない。この点の供述は客観的事実や他の証拠と符合するけれども真実性の高い供述とは言えない。

ジヤンパー・ズボンの洗濯についてはその供述が虚偽である疑いが濃いことはすでに詳述したとおりであり、手足や顔を洗い、頭髪を洗わなかつたという供述も経験者でなければ述べえない供述と言えないばかりか、ジヤンパー・ズボンの洗濯について疑いが濃い以上、同様に疑問とならざるをえない。

杉山の中での休憩についても、現地の事情に通じている筈の請求人にとつては経験しないでも述べうる事項であるばかりか、その裏付け証拠もなく、真実性の高い供述とは言えない。

下駄を持ち素足で走つたという点は、秘密性のある供述であり、証人栗田辰吾、同佐々木しづをの各証言(1冊)、検察官の三〇・一二・三〇実況見分調書二通(4冊)により一応その裏付けがなされているようであるがこれらの証人が述べる「したした」という素足で走るような音がした時刻(午前三時すぎとか午前五時前とか述べている。)は請求人の供述による時刻(午前六時前ころという。三〇・一二・七、同一二各員面調書)と一致しないように思われ、請求人の供述の裏付けとして薄弱であり、また供述内容も思いつきでも述べうる事柄であり、真実性の高い供述とは言えない。

(一〇) 自在鈎の発見

二審判決は、事件現場から自在鈎が発見されたのは、請求人の自供にもとづき捜索した結果であるとし、これを自白の真実性を裏付ける根拠の一つとして挙げている。

証人亀井安兵衛の証言(一審・一二回公判(6冊))には二審判決の右認定にそう供述がある。

しかし、司法警察員の三〇・一二・七発見捜査報告書(3冊)によると、自在鈎(鉄製のもの)は昭和三〇年一二月七日午前一〇時、忠兵衛方六畳間の切り炉の付近で火災で熱を受けたと思われ、赤さびとなつた状態で発見されたと記載されているところ、請求人の供述調書に自在鈎についての供述が出てくるのは三〇・一二・八員面調書が初めてであり、その前日の三〇・一二・七員面調書にはその添付図面に鈎を図形で示し、「かぎ」と表示してあるにすぎない。

同員面調書に鈎が図示されているところからすれば、七日に鈎に関する供述があつたであろうことは推察されるのであるが、同員面調書は二九枚綴り、図面二葉添付のものが作成されており、その前日六日夜の取調べにかかる調書(この調書で初めて自白した。)は一二枚綴りのものが作成されているから、七日付員面調書が主として同日の取調べ分を調書に作成したものであることは疑いがなく、調書の枚数、内容、図面を考慮すると、取調べから調書作成等にかなりの時間を要したものと認めざるをえない。

そうだとすると、請求人の供述にもとづき捜索し自在鈎を発見したというには午前一〇時という発見時刻は早過ぎる嫌いがあり、もし、同日朝取調べを始めてすぐ自在鈎についての供述があり、その裏付けとしていち早く捜索し発見したものとすれば、捜査官においては請求人の自供を裏付ける有力な資料と注目して裏付捜査を急ぎ、その資料を入手したことになるのであるから、同日の調書にその供述記載がなされるのが当然と思われるのに、七日付調書には前記の図示の外には何ら自在鈎に関する供述記載がない。

検察官は六日夜の取調べにおける自白の際に自在鈎に関する供述があつたが、概括的な調書作成に止めたため、その供述が記載されず、翌日裏付けのため捜索し領置した旨の意見を述べているが、それならば前記の理由により七日付調書にその供述が記載されるのが筋と思われ、検察官の意見は推測の域を出ないというべきである。

証人亀井安兵衛の前記証言はたやすく採用できない。

そのうえ、裁判不提出記録中の矢吹徳之進の三〇・一二・八、尾形ミユキの三〇・一二・八、新田としのの三〇・一二・八(各12冊)、大窪留蔵の三〇・一二・八(10冊)各員面調書(これらの証拠はその内容に照らし、従来の証拠資料にはなく、新規性のある証拠である。)によれば忠兵衛方の六畳間には木の鈎が、台所下屋の方には鉄の角棒で出来た自在鈎がそれぞれ下げてあり、下屋の鉄の鈎は事件の前々日に大工大窪留蔵が下屋を取りこわしたのにともない取り外して風呂場の前においたことが認められるのであり、前記捜索により発見したという六畳間切り炉付近に果たして発見にかかる鉄製の鈎があつたかについても疑問なしとしないのである。

請求人は自在鈎について、「炉の上に何かあつたかと聞かれたので、鈎があつたかなあと思つて述べた。」と供述している(二審二回公判)が当時の田舎においてはどこの家庭でも自在鈎を吊していたことが認められる(証人亀井安兵衛の証言、二審二回公判)のであり、請求人の弁解は必ずしも根拠のないものとはいえない。

結局、自在鈎については、請求人が捜査官の取調べに対して思いつきで述べたとしても必ずしも不合理とはいえなく、また、自在鈎が請求人の自供にもとづいて事件現場から発見押収されたという点についても、前記請求人の供述経過及び新証拠に照らして疑問があり、この点の供述も真実性が高いとはいえない。

(一一) 録音テープ

押収にかかる録音テープ(昭和五一年押第一四号の七)によると、請求人は昭和三〇年一二月九日司法警察員に対し、松山事件について犯行の動機、犯行にいたるまでの経過、犯行前の被害者方の状況、犯行の方法、態様、犯行後の行動を、取調官の質問に応じて淡々と供述したうえ、最後に犯行についての反省と自責の念を述べ、これらの一連の供述が録音されたことが認められるのであるが、この録音の時期、内容及び供述態度を総合しても、請求人の自白に高度の真実性があるとは認め難い。

3  自白の総合考察

以上考察してきたところを総合するに、請求人の自白には前後変りのない供述と、変転した供述とがあることが認められる。

前後ほとんど変りのない供述としては、供述の全部又は一部についてその裏付けとなる証拠や事実があらかじめ知れている事実関係についての供述、例えば、犯行の動機、忠兵衛方屋内、外の状況、家族の就寝状況、薪割りを兇器として用い、殺害後子供らの間にそれを捨てたこと、押入れから何か取出して忠兵衛夫婦の顔にかけたこと、たんすの中の物色、放火材料として木屑入りの箱を用いたこととその放火場所(後記のように一旦変つた以後は変つていない。)等の供述があり、次に、供述の真否を批判検討するに適した裏付資料のとれない事実関係についての供述、例えば、瓦工場での三時間の休憩、割山から山道を往復したという経路(犬が唸つたという程度の裏付け証拠があるだけ)、忠兵衛方前で一〇分間位様子を窺つたこと、家族殺害の順序、放火材料として杉葉を用いたこと、ズボンに血がついたと感じ、大沢堤の溜池でジヤンパー・ズボンを洗濯したこと、杉山での休憩、下駄を脱いで走つて帰つたこと(「したした」という音を聞いたという程度の裏付け証拠があるだけ)がある。

これに対し、供述が変転しているものとしては、供述の真否を批判する証拠や事実関係が後に現われてきて供述に矛盾が生じたもの、例えば兇器の薪割りの所在場所、放火材料と放火場所(杉葉の外に木屑入りの木箱を追加するとともに、場所も六畳間から八畳間の炭片のあるところに変更した。)、ジヤンパー・ズボンを干した場所に関する供述がある。

ところで、右変転のみられる供述は、犯行の重要な一環をなす兇器の所在場所、放火材料及び放火場所に関する供述と、犯行自体ではないが決して末節の事柄とはいえない犯行と密接な関連を有する着衣の処置、すなわち返り血の付着した着衣を洗濯した後の処置に関する請求人の一連の行動の供述である。そしてこれらの供述が自白全体のなかに占める比重は決して小さくないばかりか、放火材料を付加し、放火場所を変更した点はかりに供述内容を詳細にしあるいは記憶違いの訂正変更とみるとしても、薪割りの所在場所の変更とジヤンパー・ズボンの干し場の変更については、前者は単なる記憶違いとはとうてい認められず、後者は供述を変転させる都度虚偽のかつ詳細な事実関係を捏造して供述していたことが明らかであり、もし、請求人が犯人であるならば、すでに嫌疑の根幹である強盗殺人、放火のすべての事実を自白しながら、その兇器の所在場所をかくしたり、犯行後の着衣の処置について、ことさら虚偽の事実を捏造して供述しなければならない理由や必要性を全く理解することができないのである。

これを要するに、右供述の変転は請求人が自己の経験しない事実を思いつきで供述し、その矛盾が現われるや更に辻褄を合わせようとして同様の供述を繰り返したなど、その場限りの弁解により糊塗してきたことによる疑いが極めて濃い。そして、このような請求人の供述態度が、他の変転のない供述について存在しなかつたといえるかも疑問としなければならない。

変転のない供述のうち、他の証拠や事実と対照して供述の真否を批判検討することのできない供述、すなわち真否いずれも裏付けのない供述についてはもとよりその疑いを容れる余地があるとしなければならない。

しかして、その一例としては、捜査当時裏付け資料のなかつたジヤンパー・ズボンの血液付着と洗濯については供述が新証拠により虚偽の供述である疑いが濃くなり、その洗濯の際、請求人の手足、顔等を洗つたという供述も同様に虚偽の疑いが濃くなつたことは先に述べたとおりである。

裏付け証拠や事実に符合する供述についてはどうであろうか。供述が他の証拠や事実に符合することにより真実性の保障があるとする見方は一つの合理的な把握といえるが、常に必ずしもそうとは言えない。その裏付け証拠や事実が供述を機縁として後に発見されたというような秘密性と裏付けをもち、あるいは経験者でなければ述べえない事項の供述であるときは、高い真実性を認めることができるが、他の証拠や事実があらかじめ捜査官に知れていた場合には、供述が他の証拠や事実と符合しても、供述者の態度のいかんにより必ずしも真実でない場合がありうる。本件においては、請求人の前記供述態度に徴し、他の証拠や事実と符合する供述についても、経験的事実の供述とみられる特段の事情があるものは別として、その真実性に一応の疑いを容れざるをえない。

秘密性のある供述についても、思いつきでも供述することができ、その裏付けもないときは右同様に疑いを容れる余地がある。

そのうえ、自白の動機について検討した結果、虚偽の供述を誘発し易い情況のもとに自白がなされた疑いがあることも自白全般の真実性について至大の影響を及ぼすものと考えられる。

自白の個々の供述内容については、一部に経験事実の供述とみられる余地があつて真実性の高いと認められるものが二・三存在するが、これはごく一部に止まるうえ、真実とまで断定できるものではなく、自白全体の真実性を決定づけるほどのものとは言えないし、その外は前述のように虚偽であることの明白な、あるいはその疑いの濃い供述があるばかりか、他の証拠や事実と符合する供述も捜査官による誘導の可能性があり、また秘密性のある供述も思いつきでも供述することが容易な事柄に属し、請求人の供述態度や自白の動機にひそむ前述の問題点をも考慮して検討するときは真実性が高いものとは言えない。

もつとも、このような供述の真実性を否定しさることができないことは先にも述べたとおりである。

しかし、新証拠に照らしジヤンパー・ズボンに初めから血液が付着していなかつた蓋然性が高いと判断され、これと他の証拠をも併せて検討した結果請求人の自白にはその重要な部分において、虚偽であることの明白なあるいはその疑いの濃い供述が介在することが明らかとなつたばかりか、自白の動機、経緯についても虚偽の供述を誘発し易い状況のもとで自白がなされた疑いが新証拠に照らして濃くなり、さらに、確定判決において自白の科学的かつ決定的な裏付けとされた掛布団襟当ての血痕についても、その判断の根拠となつた血痕鑑定の証拠価値が新証拠に照らして著しく減弱したのにともない自白の補強証拠としての価値が著しく減弱したものと認められるにいたつた以上、このような問題点を含みながらも、なお犯行を認めた自白が真実であると認められるほどの高度の真実性は窺われないのである。

もとより、自白の真実性の有無は個々の供述ごとに分解して判断すべきものではなく、供述を全体として把握し評価すべきものであるから、前述の経験的事実の供述とみる余地があつて真実性が高いと認められる諸点に注目しながら請求人の自白を全体として、評価しても右の結論を動かすにいたらない。

五  その他の問題点

1  アリバイの有無

二審判決は、請求人のアリバイが証明できないことを請求人の犯行を認める一資料としている。請求人のアリバイの証明がないことには異論がない。請求人のアリバイ主張が変転し、裏付け捜査においてすべてくずれたことは先に述べたとおりであるが、これは請求人が事実をおおいかくそうとして虚偽のアリバイ主張をしたというよりも、松山事件当夜の請求人の行動についての記憶がないのに、捜査官から追及されて思いつきで述べた疑いが濃いことも前述のとおりであり、アリバイの主張が変転し、その証明がないことは本件の場合、請求人の犯行を認める資料とするのに必ずしも適切ではない。

2  留置場房内の落書き

古川警察署留置場の第一監房の板壁に落書きがあり「志田郡鹿島台町昭和三十年十二月三日入ル斎藤幸夫」、「とも子さん母様おゆるし下さへ、みよ子」、「早く兄さんが悪かつたのです」という文字があることは司法警察員の三一・六・一三写真撮影報告書、一審裁判所の三一・八・二九検証調書(各6冊)により明らかである。

しかし、右落書きは、請求人の自白の真実性を裏付ける資料としてさほど証拠価値のあるものとは思えない

第七結論

一  確定判決の証拠及び二審判決の説示によつて、確定判決が有罪の心証を形成した証拠の構造をみるとその骨子は次のとおりとなる。

すなわち、「本件強盗殺人、放火犯行を認める請求人の自白があり、この自白は、請求人と犯行とを直接に結びつけるものであるところ、その任意性には疑いがなく、その真実性についても請求人使用の掛布団襟当てに、三木鑑定及び古畑鑑定により表裏合せて八五個の血痕があつて、この血痕にA型または二名以上の血液に由来するものならばA型とO型の人血が混在しているとされており、この鑑定結果と他の証拠をも総合すれば、右血痕に被害者らの全部又は一部の者の血液が付着している可能性が極めて高いと認められ、したがつてこの掛布団襟当ての血痕の存在により自白の大綱が科学的に、殆んど決定的に裏付けられていること、自白の個々の内容も経験者でなければよく述べえない供述を含み、他の証拠や事実とも符合し、供述に不自然、不合理なところがないこと、その外自白の動機及び経緯(アリバイがみなくずれ、同房者から衣類の血は洗つても薬を使つて調べれば判るさと言われ、俺も悪運が尽きたから白状するかなと言つた後自白したこと及び自白の時期等)に照らしても十分の真実性が認められるものである。これに対し請求人が事件当夜着用していたと認められるジヤンパー・ズボンから平塚鑑定の結果返り血の血痕が発見されなかつたがこれは事件後同鑑定までにジヤンパー・ズボンがそれぞれ二度にわたつて洗濯をへているので、血痕反応が顕われなくても異とするにたらず、自白の真実性を否定することにはならない。」ことをその骨子としているものである。

二  しかし、当裁判所が、新たに提出された証拠(そのなかには新規性のある証拠が含まれている。新規性のある証拠を以下「新証拠」という。)を従来の証拠(確定判決に挙示されなかつた証拠を含む。)に加えて総合検討した結果、右証拠構造のなかで請求人の自白の大綱が科学的に殆んど決定的に裏付けられているとされた掛布団襟当ての血痕のもつ証拠価値は次の理由により二重の意味で著しく減弱されることとなつた。すなわち、

1  先ず、右血痕に関する三木、古畑両鑑定の結論は、新証拠である須山鑑定書、木村鑑定書(五三・九・二七)及び同人らの証言等の証拠に照らし、厳密には襟当てに存在する多数の血痕様斑痕が同一の機会ないしは同一の機序により生じたという前提条件のもとでのみ妥当するものであつて、請求人の自白を含めすべての証拠を併せて総合検討しても結局その前提条件の充足が完全には解明されない本件においてはその結論がそのままでは妥当しないことが明らかとなつた。

もつとも、このことは、三木、古畑両鑑定の証拠価値が皆無に帰したことを意味するものではなく、これらの鑑定は掛布団襟当てに存在する多数の斑痕のうち少くとも一部に被害者らの血液と同型の人血が付着していることの蓋然性を認める資料となるものであり、この限度においてはなお証拠価値を有し、請求人の自白の補強証拠となりうるものである。

しかし、その証拠価値は、前述の前提条件の充足が解明されこれらの鑑定の結論がそのまま本件に妥当する場合に比較し著しく減弱したものとならざるをえない。

2  次に新証拠である宮内鑑定書、木村鑑定書(四四・五・一)等の証拠及び従来の証拠である平塚鑑定書(三〇・一二・二二)、船尾血痕検査成績を総合して考察するときは、請求人の事件当時の着衣であるジヤンパー・ズボンについたとされる返り血が当初から付着していなかつた蓋然性が高いと判断されるにいたつたところ、このことからジヤンパー・ズボンに血液が付着しないにも拘わらず、請求人の頭髪のみに返り血が付着し、約二時間後に就寝に際して使用した掛布団の襟当てに二次的、三次的血液の付着によつて多数の血痕斑が生じたであろうかについて多大の疑問を生じさせることになつた。

3  そして以上の点を総合して更に推究するときは、(一)掛布団襟当ての多数の斑痕中に被害者らの血液型と同型の血液が血痕として付着していたことの蓋然性と、(二)その血痕が請求人の犯行を介して生じたものとみられることの蓋然性の両面において、それぞれ疑いが生じ二重の意味で襟当て血痕の証拠価値は著しく減弱されるにいたつたと言わざるをえない。

三1  他方、前記のようにジヤンパー・ズボンに当初から血液が付着していなかつた蓋然性が高いと判断されることからして、ジヤンパー・ズボンに血液が付着したという請求人の供述及び右血液の付着を前提としたジヤンパー・ズボンの洗濯等に関する請求人の供述がいずれも虚偽の供述である疑いが濃厚であるばかりか、洗濯後に干したというジヤンパー・ズボンの干し場所に関する請求人の供述は甚だしく変転しており、変転前及び変転途中の供述は他の証拠により認められる事実と対照して虚偽の供述であることが明白であり、また変転のすえ落ちついた供述もその裏付けがなく虚偽の疑いが極めて濃厚である。そして、濡れたパンツ姿で部屋に入り寝たという供述も不合理といわねばならない。

2  さらに、請求人の自白において殺人犯行の兇器とされている薪割りの所在場所に関する供述が屋内土間から最後には屋外風呂場の壁へと変転しているところ、これは単なる記憶違いの訂正とは到底認められないものであり、請求人が経験事実について記憶がないのに、捜査官の追及に対して思いつきでその場限りの供述をしていた疑いが濃い。

3  以上のように、請求人の自白のうち、虚偽であることの明らかな又はその疑いの濃い供述は、一つは犯行の一環をなす兇器の所在場所に関する供述であり、他の一つは、犯行に密接に関連する、ジヤンパー・ズボンの返り血の付着とこれにまつわる着衣の洗濯及びその後の処理に関する請求人の一連の行動の供述であるが、これらの供述が請求人の自白全体に占める比重は決して小さいものではなく、この点の虚偽性やその疑いは請求人の自白全体の真実性に少なからざる影響を及ぼすものと考えなければならない。

4  さらに、自白の動機、経緯を、裁判不提出記録中の新証拠である高橋勘市の各員面調書を加えて検討した結果、前述の二審判決の理解とは異なり請求人が松山事件当夜の自己の行動の記憶がないままに捜査官の追及を受けて混乱したうえ、同房者の示唆を受けて、虚偽の自白を誘発し易い情況のもとで自白するにいたつた疑いが濃くなつたところ、この点は自白の真実性に至大の影響を及ぼすものと思料せざるをえない。

四  請求人の自白のなかにこのような虚偽ないしはその疑いの濃い供述が介在し、自白全般の真実性に疑いを容れるべき事情が存在するとともに、自白の決定的な裏付けとされた掛布団襟当ての血痕のもつ証拠価値が著しく減弱したものと認められる以上、このような問題点を含みながらも、なおも請求人の他の供述部分や裏付け証拠等により請求人の犯行を肯定し、有罪の心証を維持できるとするためには、その供述に高度の真実性が認められなければならない。

そこで、請求人の個々の供述(その多くは、二審判決が自白の真実性を認める支えとして経験者でなければよく述べえない供述であると評価した。)の真実性について検討した結果、一部には経験的事実の供述とみる余地があり真実性の高いと認められる供述も二・三あるけれども、いずれも真実とまで断定できるものはなく、かつそれらはごく一部に限られており、それらを合わせても犯行を認めた請求人の自白の真実性を決定づけるにはいたらないし、その他の供述は殆んどが捜査官の誘導や思いつきでも供述しうる事項に属し、具体的、詳細な内容にわたり、かつ他の証拠や事実とも符合する供述であつても、高度の真実性のある供述とは必ずしも言えないものである。

しかも、一部には却つて真実性について疑いがあり、あるいは不合理な供述さえあることが認められる。

最後に、請求人の自白をその裏付け証拠や事実とともに総合評価してみたが、襟当ての血痕のもつ補強証拠としての価値には多くを期待することができなく、自白に存する前述の問題点を克服して、請求人の犯行を肯定することができるほどの高度の真実性が請求人の自白に存在するものと認めることは困難である。

五  以上の次第で、確定判決の証拠構造は新証拠に照らしてその重要な部分が動揺し、もし、新証拠が確定判決の審理中に提出されていたとすれば、有罪の事実認定の正当性について合理的な疑いが生じたものと認められるので、請求人に対し、無罪を言い渡すべき明らかな証拠を発見したときに該当するというべきである。

よつて、本件再審請求は理由があるから、刑事訴訟法四四八条一項により本件について再審を開始することとし、同条二項により請求人に対する死刑の執行を停止することとして主文のとおり決定する。

(裁判官 伊藤豊治 畑瀬信行 田村幸一)

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